4話 天才は稽古からしてスゴい
「おーはよー!」
ミニカーや小枝、小石、おもちゃのトンカチなど、多喜さんは目に付いたものを手に取っては、「おーはよー」とやってくる。
一度頭から水をかけられた部員が激怒したことはあったけれど、基本的にみんなは多喜さんの奇行を笑って許容していた。
それはもちろん部員達の人柄によるところが第一だが、多喜さんの有する人徳と特殊な能力のおかげでもあったりする。
演劇に身を置くものなら誰でも認めざるを得ない圧倒的な能力。部活に所属していない森田先輩には知る由もないだろう。それは一日の講義が終わった後、部室棟の稽古場で発揮されるのだ。
部室にて。
「じゃあ、最後にもう一度、三場面の頭から止めずに最後まで通します。三、二、一、はい!」
演劇部部長の手拍子が部室棟の一室に響いた。
部室の真ん中に一人立つ多喜さんが目を細めて息を吸い込む。
その一呼吸でもう『入れ替わって』いるのがわかった。
「――彼は現役にしてすでに伝説と呼ばれる優秀なパイロットでした。人望も厚く誰もが認める英雄でした。でも、私はそんな彼がもつ軍人らしからぬ優しさが好きでした。亡くなった奥さんの代わりなのはわかっています……それでも嬉しかった。私はキャプテンと一緒なら何も怖くありません。この自爆特攻だってあなたとなら…………だから、お願いです………最後にもう一度だけ、私を名前で呼んでください……最後にもう一度だけ……」
「はい、止めます! ごめん、みんな! ちょっと泣くわ」
「おい、またかよー」
「慣れろよ、いい加減」
止めないと宣言した稽古が五秒で止まり満場のブーイングが飛び交う中、部長兼演出担当の
「はあ~~、たまんないわ~~。多喜の独白。好きだわ~~、多喜の芝居。はぁ~~、どうしよう。はぁ~~、涙が止まらん。
「毎回のことなんだから自分で持参してくださいよ」
そうぼやきながら箱ティッシュを差し出すと、伊鶴先輩は遠慮なく二枚抜き取り、眼鏡を外して鼻をかんだ。そんな先輩から顔をそむけ、僕はこっそりと目頭を袖でこする。
長ゼリフの度にボロ泣きする伊鶴先輩はさすがにやりすぎだと思うけれど、本音を言うと少しだけ気持ちはわかった。
多喜さんの声はまるで魔法だ。一度感情を乗せて放たれると、人の心を捉えて離さない魅力がある。
心の奥底の自分でも気付いていない一番柔らかい部分を両手でそっと救い上げられるような不思議な魅力。
こういう人のことを天才というのだろう。
事実、僕の差し出した箱ティッシュに手を伸ばしたのは伊鶴先輩一人じゃなかった。
「いずるん、泣かないでよー。稽古にならないよー」
とはいえ、多喜さん本人はけろりとしたものだ。まるで雨合羽でも脱ぎ捨てるようにさっぱりと役を剥ぎ落し、ふらふらと演出机に寄って行く。
「これで涙を拭いてよー」
「ありがとう、多喜。でも、小道具のナイフを渡されてもどの部分であたしは涙を拭けばいいのかなって、いてて。こら刺すな」
「おらおらー。おらおらー」
「怖い怖い。やめろって、おもちゃでも尖ってるんだぞ、先」
「止まった? 涙」
「独特な止め方だな、お前は!」
……本当に独特なお方だなあ、二人とも。
「ああ、もういいや。稽古再開します、みんな準備はいい?」
「お前の泣き止み待ちなんだよ」、という声を綺麗に無視して伊鶴先輩はキリリと顔を作り直す。
「では、もう一度三場面の冒頭から。今度こそ止めずに行けるところまで行きます。はい、集中。今日の稽古の集大成、最高の三場を見せてください。三、二、一、スタート!」
「――彼は現役にして」
「ストップ! もうちょい泣くわ」
「いい加減にしろー」
再び部室にブーイングが反響する。
やっぱり、多喜さんの独特の振る舞いが許されるのは他の部員の人柄によるところが大きいのだろうと改めて思った。
平たく言えば、変なのは多喜さん一人じゃないってことだ。
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