第36話 燦爛たる目隠し




 ブロンズのシャワーコックをひねり、頭から水をかぶる。

 海水で冷えた身体を温めるよう家主が勧めてくれたのだが、アーティはオーバーヒート寸前だった。

 冷やさなければ。でないと、脳が焼け落ちてしまいそう。


「ちょっと整理しよう」


 壁に両手をついてやけに力強い独り言が放たれる。ホワイトタイルがぼんやりと反射する顔は真剣そのものだ。

 彼女の脳内に浮かぶのはもちろん、ミステリアスが擬人化したような美しい顔面。


(マコト先生は顔が良くて、お仕事がない日はお昼まで寝てるぐうたらさんで、謎が多くて、普段はヨレヨレな服を着てて、顔が良くて、料理の腕前が謎にプロ級で、思わせぶりな天然タラシで、面倒くさがり屋さんで、顔が良くて……既婚者?)


 大事なことを3回繰り返した恋心に、余すところなく細かいひびが入る。

 身近に感じていた想い人と急激に距離が出来たような、そんな寂しさに襲われた。

 足元の排水溝に吸い込まれる水と一緒に、この感傷も洗い流せたらいいのに。


「せめて、あの顔にでっかく『既婚者』って書いてあれば……」


 寝取り系は地雷なのである。

 同級生の中には相手にパートナーがいようともお構いなしの猛者もさもいたが、貞淑なパリジェンヌの鑑たるアーティは無理だ。そこにあるものを壊してまで幸せを追い求めたくはない。なぜなら自分がされたら物凄く悲しいから。


「はぁ~~~……」


 何もかも空っぽになってしまいそうなほど深い嘆息を吐き尽くす。


 ありったけの勇気を振り絞ったのだ。『わ、私もおっおおお、おおおおくさまにご挨拶した方が』と。だが――。


『大丈夫だから。恥ずかしがり屋なんだ、彼女』


 そう言って目も合わせてくれなかった背中を思い出し、涙が浮かぶ。

 恥ずかしがり屋なんてただの建前だ。あれは大切な人を人目に触れさせたくない独占欲のようなもの。そうに違いない。


 指輪をしていなかったのは元々持っていないのか、機材に傷がつかないようにするため。

 言わなかったのは聞かなかったから。

 下心が一切ないから、思わせぶりな態度も取れる。


 最初から一人で踊っていた。

 視界を共有して少しは彼に近づけたと自負していたのは、とんだ思い上がりだ。



『アーティさんのことを理解してくれる素敵な人がいつか現れますよ』



 ふと、そう言って笑った花嫁を思い出して、我慢していた涙があふれた。


 赤く染まったウエディングドレス。

 海を泳ぐシャクナゲ。

 荒波にさらわれた命。

 

 アクシデントが立て続いて考えないようにしていた現実が一気に襲い掛かる。

 どうしようもなく身体が震えるのは、水が冷たいからではない。


 目の前で人が死に、大勢の人が津波に呑まれた。


 怖かった。キャパシティを超えた非日常的な出来事が恐ろしく思えた。それ以上に言葉にできないほど悲しい。心が寒い。


 蒼白になった頬を滑り落ちる涙を止められず、アーティはその場に膝を畳んでうずくまった。


 どれくらいそうしていたのだろう。

 排水溝へ流れる冷水を力なくじっと見つめる。

 すると、色鮮やかな視界に白いもやが立ち込めた。同時に目の奥を刺すような鋭い痛みが襲う。


「いっ……!」


 固く目をつむってしばらくすると痛みは消えた。

 だがもやだったものは光を燦爛さんらんと反射する鱗のように変化し、鮮やかな視界に半透明な膜を張る。

 眼科に通えていなかったせいもあるのだろうか。視えすぎる視界は眼精疲労を伴うのだ。


「体調が優れないのですか、アネット様?」

「いえ、大丈夫で……――へ?」


 突然の背後からの問いかけに、驚きで涙が引っ込んだアーティが勢いよく振り返る。そこにたたずんでいたのは、脱衣所へ続く扉を全開にした家政ヒューマノイドだった。


「ぎゃああああああああ!!!!!」

「着替えとタオルをお持ちしました。ああ、濡れたお洋服も回収しますね」

「フツー扉越しに言いません!? 何で当たり前のように開けてるんですか!」


 女性型とは言え、出会って初日に全裸はキツイ。

 急いでシャワーを止めて、ララの手から清潔なタオルをひったくった。


「開けてはいけなかったのでしょうか?」

「当然です! お、男の人だったらどうするんです!?」

「はぁ……?」


 さっぱりわからんという顔のララに、アーティは大きく項垂うなだれた。まるでこっちが非常識みたいじゃないか。


「初めてお客様がいらしたので、おもてなしの勝手がよくわからないのです。申し訳ありません」

「で、でも、プログラミングはされてますよね……?」

「さぁ……? 旦那様があれこれいじってしまわれたので、私には何とも」


 感情が透けて見えないミティアライトの瞳に見つめられ、蒼白だった顔は朱色に染まった。

 マコトには色々と聞きたいことがあるが、まずは市販ヒューマノイドの私的改造は違法行為だと教えなければ。


「じゃあ、今日から覚えましょう。使用中のお風呂のドアは、勝手に開けない!」

「承知しました。旦那様が絶壁貧乳派の変態野郎ということも覚えておきます」

「余計なことまで覚えなくていいです」


 ばっちり見てるじゃないか。まだまだ発育途中だと信じて疑わないまな板に謝ってほしい。

 アーティは不調な目を細め、クラシカルなエプロンドレスの下で窮屈そうにしている二つのブール(丸い形をしたフランスパン)を睨みつける。


 家政ヒューマノイドとは言え、LA2-C型は観賞用も兼ねていた。目鼻立ちが整った顔や夢と希望とシリコンがたくさん詰まった豊満な胸部は標準装備である。家事でどんな役に立つと言うのだろう。

 趣味と実用を兼ねすぎじゃないだろうか、このヒューマノイド。




* * * * *




「しばらく留守にして、ごめん」


 日没後、明かりが消えたとある一室。

 マコトが眠る女性へ語りかける。返事はない。


 ララが毎日取り換えてくれている清潔な白いシーツに、太陽が匂い立つ布団。屋敷の中は少し騒がしいが、いつもと何も変わらない光景だ。


 神秘的な瞳が、窓際の月明かりすら差し込まないベッドの上を見やる。

 彼は無数の点滴のくだを掻き分け、ぴくりとも動かない乾いた指先に手を重ねた。骨ばかりになってしまった隙間を埋めるよう、しっかりと。


 くだが繋がれているのは、人工呼吸器である。

 脆弱ぜいじゃくな心拍数が奏でる電子音だけが、彼女が生きている証。

 マコトは空いている方の手を装置へ伸ばした。


 ――何度、止めてしまおうと試みたことか。


 その度に底なしの後悔に苛まれ、色の少ない世界で彼女に懺悔ざんげし、みずからの貪汚たんおを恨む。そんな朝を何千何万と迎えて、また独りぼっちの夜が来る。


 震える指がスイッチから離れた。そのまま固く閉ざされたまぶたに触れる。


 どれだけ願おうと、望もうと――この乾いた欲求が彼女を苦しめるだけだと、分かっているのに。



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