第13話 白昼夢の怪物




 身体が冷たい。磯の匂いがする。昔、家族でバカンスに行ったパロマビーチのような――。


「アーティ、もう大丈夫だよ」

「んぅ……? せ、先生……?」


 アーティが柔らかな声に誘われて目を開けると、眼前に広がるのは月と海の宝石。

 あまりの美麗さにギクリと身体が硬直する。さっきの不思議な光なんて、頼りない懐中電灯程度に思えた。


「マコト先生って、瞳の中で宇宙育ててるんですか?」

「うーん……ごめん、倒れた時に頭でも打った?」


 軽率に後頭部を撫でられて脳が爆散しそうになったアーティは、勢いよく飛び起きる。

 倒れていた半身はなぜか水に浸かっていて、ぐっしょり濡れていた。

 そして改めて周囲を見渡して気づく。ここは酒場ではなく、外だった。だが見慣れたパリではない。


 崩壊したビル、割れた地面、動かない車の残骸。建物が海に深く沈んだ場所と、水溜まりのように薄く海水の張った場所が点在している。人の気配は、ない。


 二人が倒れていたのは、くるぶしあたりまで水に浸かった道路のど真ん中だ。

 一部が崩れたブロック塀の上で、退屈そうなタマキが大きな欠伸あくびを零す。


 初めて訪れた街。だがアーティは、この風景を知っている。テレビニュース、新聞、SNS、色々な媒体で何度も眺めた。そう、今日の夕飯の席でも――。


「先生、ここって……」

「見せたいものがあるって言ったでしょ? ついて来て」


 原理はわからないが、両足と腰の銃創はもう問題ないらしい。

 確かな足取りで歩き出した穴の開いたコートを、慌ててアーティが追う。


 夢でも見ているのかもしれない。もしここが本当にくだんの水没都市だとしたら、6万マイルを一瞬で飛び越えたことになる。そんなことはあり得ない。だがついさっきまでの非日常的な夜を思うと――もう、アーティの常識は世界の常識ではなくなってしまっている。目に視えるものを受け止める覚悟をしなければならないのかもしれない。


 片側が崩落した階段を上る道中、更地にされた湾岸沿いや、横倒しになったランドマークタワーを眺めた。

 終末が街全体を包んでいるような、そんな静寂に満ちている。

 水面に反射する朝焼けだけが、ただ美しい。


 そしてたどり着いたのは、潮風で遊具が錆びた高台の公園。

 そこから見下ろした街並みの構図に、アーティの心臓がひときわ大きく跳ねた。


「アーティ、カメラ貸して?」


 言われるがまま、さっきまでの逃亡劇でボロボロになったカバンを開ける。

 カメラ用の防水バッグに入れていたおかげで、大切な形見は無事だった。


 カメラを受け取ったマコトが取り出したのは、いつも肌身離さず身につけていたペンダント。暇さえあれば大切に磨いていた、レンズのアタッチメントだ。

 それをカメラに装着し、再び持ち主へ手渡す。彼女の震える手に気づいたのか、困ったように微笑んだ。



 ファインダーを覗くことが、少しだけ怖い。

 こんな感情は初めてだった。

 だけどそれ以上に、アーティはマコトが生きる世界を見てみたいと思った。


 ピンボケしたような視界で、少女はカメラを構える。


 レンズを向けたのは、緑地化した大型ドーム球場跡。

 黄色、青、緑、ピンク。海水の水溜まりが鮮やかな光を反射した。

 アーティは恐る恐るファインダーを覗く。




 フォーカスリングを回した世界・トーキョーに咲く、肉眼では視えない巨大な蓮の花。


 その中心に座る白昼夢の怪物が、レンズ越しにこちらを見て微笑んだ。






『白昼夢の怪物』―完―



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る