89話 やらかしてしまった

「唇が痛い……」


 翌日、教室の席につきながら俺はつぶやく。


 キスをすることがとても気持ちよくて、幸せで、長い間俺と緋彩はキスをしていた。

 時間で言えば……三十分くらいしていただろうか。

 まぁそれだけしていれば唇が荒れることは避けられず、俺は唇を痛めている。

 ちなみに緋彩は日々のケアを怠っておらず、痛いとは言っていたが俺ほどでもないようだった。


「どうしたの? 口に手を当てて」


 眉をひそめながら痛みに耐えていると、隣の席についたあかりが俺に声をかけてくる。

 ……厄介な奴が来た。


「な、なんでもない」

「なんでもなかったら口に手なんて当てないでしょ普通」

「いや、そうかもしれないけど……」


 どうやってこの場を切り抜けようかと思考を必死に巡らせていると、あかりの目と口が段々と弧を描いていく。

 そうして……。


「……なるほどね」


 全てを察したと言わんばかりにあかりを俺を見つめていた。


「彼方君、ひーちゃんとキスしたでしょ」

「っ……」

「あっ、図星だ」


 なんで俺はここで違うと言い返せないのだろうか。

 その一言さえ言えば、あかりがこんなにニヤけることはなかったのに。


「付き合い始めてから一ヶ月くらいか。キス、遅かったね」

「そうなのか?」

「だってそうじゃない? 彼方君とひーちゃんならキスくらい付き合ってすぐすると思ってたんだけど」


 俺たち、そんな風に思われてたのか?

 いやまぁ、確かにあのイチャつきようだったらそう思われても仕方ないのか。

 少しは自重した方がいいのかとも思うが、あれ以上イチャつかないのは想像がつかなかった。


「別に、俺たちには俺たちのペースがある」

「そんなこと言って、ほんとはキスするのに勇気が出なかったとかそういうのじゃないの?」

「それは違う」


 はっきりと否定されたあかりは虚をつかれたようにぽかんとした表情を浮かべた。


「俺は、緋彩とのファーストキスを大事にしたかっただけだ。その気持ちに偽りはない。現にキスは緋彩がしたいって言ってくれて、俺はその時にするのが一番だと思ったからしたんだ」

「なるほどねぇ。まぁ、いいんじゃない? 彼方君らしくて。彼女とのファーストキスを大事にしたいって思う気持ちは素敵だと思うし」


 あかりの言葉を聞いて、俺は密かに安堵する。


 別に、あかりに緋彩とのことを話すのに緊張する必要はない。

 付き合ったということであかりも緋彩が俺をどう思ってるのか、俺が緋彩をどう思っているのかを知られただろうから、俺が緋彩に余程やらかさない限り大丈夫なのは分かっていた。

 それでもあかりに緋彩とのことを話すのには少しだけ緊張してしまう。


「それだったら、ひーちゃんの誕生日もきっとちゃんと祝ってくれるんだろうね」

「誕生日……?」


 背筋が凍るような感触が俺を支配する。

 全く頭になかった。


「いつ……?」


 恐る恐る尋ねれば、あかりは目を細めて俺を睨みつけながら言った。


「明日、だけど」

「明日……」


 やらかしてしまった。

 とんでもないことをやらかしてしまった。


「……どうしよう」


 そうつぶやいた俺を見て、あかりは深いため息をついた。


「今日準備するしかないでしょ」

「いやそうなんだが、俺が一人で買い物に出かけられるとは考え難い」


 プレゼントを買うにしろ、どこかへ行くとなれば確実に緋彩はついてくるだろう。

 ここ最近は緋彩を不安にさせすぎた。


 だから、俺一人でプレゼントを買えるとはとても思えなかった。


「……で、私にひーちゃんをどうしかしてほしいと?」

「察しが良くて助かる」


 あかりが緋彩を遊びにでも誘って引き付けてくれれば、その間に俺がプレゼントを買いに行ける。

 何を買おうかはまだ考えていないが、今からでも考えれば今日中には買うものも決まるだろう。


「今日だけ引き付けてくれれば大丈夫だから」

「今日だけと言わず、明日まで引き付けちゃおっかなぁ」

「それは……どういう意味だ?」

「なんでもない。とりあえず分かった。ひーちゃんは私が何とかするよ」

「あ、あぁ、助かる」


 よく分からないが、これで何とかなりそうだ。

 安堵するように息をつくが、隣でやけに上機嫌なあかりが気になってしょうがなかった。

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恋人ごっこ れーずん @Aruto2022

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