70話 自分のために
夜ご飯を食べ終えて部屋に戻ってくると、ドアを向こうから叩く音とともに鈴のような声が聞こえてきた。
「緋彩です。入ってもいいですか?」
「ん、いいぞ」
俺がベッドの上で許可を出せば、緋彩はガチャリとドアを開けて緋彩が入ってくる。
「すみません。今、大丈夫ですか?」
「大丈夫だぞ。なんかあったか?」
「特に何かがあるわけではないんですけど、一人でいるとどうしても落ち着けないので。しばらくこの部屋にいてもいいですか?」
確かに、食事中も彼女はどこか浮ついている様子だった。
意中の男子の実家ということもあるのだろう。
きっと俺も、緋彩の実家に行ったら気が気でなくなる。
その時は落ち着ける人の側にいるのが一番だ。
もし俺がその人であるのなら、彼女を突き放すことはない。
少しだけ表情に疲労を見せている彼女に、俺は自分の右隣をポンポン叩いた。
「ほら、こい」
「ありがとうございます」
安堵したように笑みを浮かべた彼女は俺の隣に腰を下ろす。
「ボーカル、上手くやれそうか?」
「ちょっと不安です。合唱で歌ったときは周りに寄り添ったり素直に発声すればよかったのですが、バンドのボーカルとなると、あまりそうもいきそうになくて」
「そうなのか?」
「はい、色々と技術を磨いていかなければいけないらしいんです。私にそれが出来るのでしょうか……」
自虐気味に笑みを浮かべる緋彩。
新たに挑戦することに不安は付き物だ。
それは誰だって変わらない。
俺だってドラムを上手くやっていけるか不安だし、心配だ。
そして、それはあかりや零弥も同じく不安に思っているだろう。
でも、それを理由に元気づけることは出来ない。
不安の度合いなんて人それぞれだ。
特に精神が不安定な人に「周りも同じく不安なんだよ」と元気づけるのはかえって逆効果になってしまう。
みんな不安なのは、きっと彼女も分かっているだろうから。
だから俺は……。
「……出来なくたっていいよ」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げた彼女は俯かせていた視線を俺に向ける。
そんな彼女に視線を合わせると、俺は優しく微笑んだ。
「バンドは観客を楽しませることを第一に考える。だから、確かにお客を楽しませるには技術を磨いた方がいい。でも、お客を楽しませる方法はそれだけじゃない」
「じゃあ、他に何が……?」
「そんなの簡単だ」
一拍を置いて、俺は告げる。
「俺たちが楽しむんだ」
「私たちが、楽しむ?」
「ほら、よく小さい子がはしゃいでいるのを見るとこっちも自然と笑顔になるだろ? それと同じように俺たちが楽しそうに演奏をすれば、観客もきっとその楽しい雰囲気に呑まれてくれる」
まるで自分が経験したことのように話しているが、これは全て零弥が話してくれたことだ。
『俺が一番好きなバンドはあんまり演奏が上手くないんだけど、とにかく楽しそうに演奏するんだよ。それに魅せられてこっちまで楽しい気分になるんだ』
いつしか楽しそうに笑顔を浮かべながら話してくれた零弥の表情と言葉がフラッシュバックする。
バンドは音楽を提供する立場ではあるが、それと同時に観客と同じ楽しさを共有できる立場でもある。
自分たちが楽しく演奏すること、それが観客に魅せる何よりなのだ。
特に技術が全くない俺たちは。
「まぁ、楽しく演奏するには技術があったほうがいいけどな。だから、まずは自分が楽しめるように練習するのが一番じゃないか?」
「自分が、楽しめるように……」
「周りのことを考えるのはその後。苦しんで練習するよりかは楽しんで練習した方が絶対上手くなるし、俺たちも笑顔になれる」
緋彩は自分のことを考えなさすぎなのだ。
いつも自分は後回し。
周りのことを第一に考えて、自分を犠牲にする。
それは緋彩のいいところであり、悪いところだ。
「だから、自分のために練習してみろ。そうすれば絶対上手くいく」
彼女の頭を労うように撫でながら言う。
頬をほんのりと色づけた彼女は噛みしめるように瞳を伏せたあと、俺が彼女の頭から手を離すと同時に抱き着いてきた。
「ひ、緋彩?」
突然の出来事だったので、俺は驚きの声を抑えることが出来ない。
戸惑うように彼女の名前を呼べば、少しの間の後に声が返ってきた。
「……ありがとうございます。頑張ります」
その言葉に、俺は彼女を抱き返しながら言った。
「自分のできる範囲内でな。頑張りすぎて倒れでもしたら承知しないぞ」
「分かってますよ。『自分のために』ですからね」
先程より少し明るくなった彼女の声を聞いて、俺はそっと安堵する。
しかし、それも一瞬だった。
ガチャリとドアが開き、俺たちではない別の声が響く。
「お風呂が入って……って」
母さんと目が合った。
疑似親フラの瞬間である。
俺と緋彩が抱き合っている様子を見た母さんは目を見開いたあと、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「邪魔してごめんね〜」
そうして閉じられるドア。
「ちょ、ちょっと! 母さん待って!」
やばい、確実に誤解された。
いや案外そうでもないのかもしれないが。
兎にも角にも急いで弁解しなければ。
そう悟った俺は緋彩に「ちょっとごめん」と断ったあと、急いで部屋を出て母さんを追いかけた。
部屋のドアを閉める直前、緋彩の笑い声が聞こえたような気がした。
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