43話 愛したいから

「——ほら、青いところに当てて冷やせ」

「ありがとう、ございます」


 即席で作った氷のうを手渡せば、緋彩はおずおずとそれを受け取った。


「彼方君の分は?」

「俺は後で手当てする。今はお前だ」


 見れば、彼女の腕にも傷がある。

 そこからばい菌が入るといけないし、俺の外部的損傷は幸いにも頬の青痣だけだったので、俺は彼女の手当てを優先することにした。


 手当てしながら、俺は彼女に尋ねる。


「お前の親父さんが来る予定だったのは今日だけなのか?」

「……はい」

「その後、二日間も俺と会わないようにしたのは、この傷と痣を見られたくなかったから?」

「…………はい」


 消毒液で傷を消毒し、薬を塗る。

 その後ガーゼと救急テープである程度の保護をすると、それが取れてしまわないようにネット包帯で覆った。


「なるべく綺麗に処置したつもりだが……腕、動かしにくくないか」

「大丈夫です、ありがとうございます」


 お礼を言った彼女の表情は未だに暗いまま。

 処置を終えた俺は、ソファに座っている彼女の前でひざまずくような体制になる。

 そうして彼女を見上げ、苦笑を浮かべた。


「ったく。女の命でもある顔にこんな傷をつけるなんて」

「……彼方君」

「どうした?」


 優しく問いかけると、緋彩の表情は更に曇る。

 申し訳なかった。

 こんな表情にさせるまで彼女を放っておいたのは、俺だから。


「この前、言いたくなったら聞いてくれるって彼方君、言ったじゃないですか」

「言ったな」

「……聞いてもらっても、いいですか?」


 それは緋彩から聞こえた、初めてのSOSだった。


 彼女の言葉に俺は笑みを更に深くして、彼女の隣に座った。


「言ったはずだ、俺はいつでも聞いてやるって」


 そうして彼女は喋りだす。

 今まで抱え続けていた悩みを。


「……お父さんは、私が小さい頃から暴力を振るう人でした。と言っても、最初はそれほどでもなかったんです。私が何かミスをした時に手の甲を叩く程度で、今のように殴ったりはしませんでした」


 それでも暴力は酷いものだ。

 一般的な子供のしつけがどういうものかは分からないので何とも言えないが、少なくとも俺は親に暴力を振るわれたことなど一度もなかった。


 少しの暴力でも許されざる事なのに、彼女は「それほどでもない」と声のトーンを少しだけ上げた。

 何故こんなにも俺と彼女で暴力に対する物差しが違うのかと、俺は怒りを覚え始めていた。


「それが変化したのは……私が六歳のとき。お母さんが病気で死んでからでした」

「死んだ……? ってことは、お前の母さんはもう……」

「はい、もうこの世にはいません」

「……ごめん、嫌なこと思い出させたな」

「気にしないでください。私は大丈夫ですから」


 嘘をつけ。

 今、寂しそうに俯いただろ。

 声まで暗くなってしまう緋彩がとても気にかかったが、俺はあえて言及しなかった。


 ここじゃない。

 俺が言葉をかけるべき点は、もっと他にある。


「お母さんが死んでから、お父さんは一人で私を育ててくれました。だから、きっとストレスが溜まっていたんでしょうね。私をストレスのはけ口にするために、暴力を振るった。『どうして言われたことをすぐに出来ない』『だからお前はなんだ』って」

「っ——!」


 その時、緋彩に抱いていた数々の疑問の答えが一気に見えた。


 約一ヶ月前に緋彩が俺の皿を割ったとき、彼女は酷く怯えた様子を見せていた。

 あれはきっと、俺に怒られて暴力を振るわれることを恐れたのだろう。

 そして、その後に彼女が自分を「悪い子なのに」と卑下したのは、あの人に『自分は悪い子だ』という概念を植え付けられたからだ。


 きっと彼女は何回も暴力を振るわれて、そして耐え続けてきたのだろう。

 でなければあのとき取り乱すことも、それまでクールに振る舞い続けていたこともなかったはずだ。


「一度も私を褒めてくれたことなんてありませんでした。お父さんの言った通りにどれだけ頑張ったとしても『それくらい当たり前だ。そんなことでいちいち喜ぶな』と言われ、また殴られるんです」


 彼女が褒められることに耐性がなかったのも、きっとこれが原因だ。

 親に褒めてもらえなかったから。

 彼女がどれだけ頑張っても労いの言葉一つなく、あの人は彼女に求め続けたから。


「そうして私の顔や体には、次第に痣が増えていきました。それも傍から見れば一目で分かるほどに。でも、みんな見てみぬふりをするんです。私に関われば必ず厄介事に巻き込まれると、そう疑って」


 緋彩の明らかに憔悴しきっているその姿に、思わず眉を顰めてしまう。

 どうして周りは痣だらけの緋彩を放っておくことが出来たのだろう。

 彼女はきっと周りに助けを求めていたはずなのに。


「……一人だけ」

「ん?」


 少しだけ間を開けた緋彩は、か細い声でつぶやき言葉を続ける。


「一人だけ、私を気にかけてくれた友達がいました。その子は親身になって私を気に掛け続けてくれていたんです。でも、その子とは事が解決する前に離れ離れになってしまいました」

「離れ離れに……?」

「お父さんに、今の高校に通うよう言われたんです。ここから私が通っていた中学校まで、車で六時間もくだらないほど遠かったのに」

「それは……一体何で?」

「分かりません。もちろん、その友達はここまで来ることが出来ませんでした」


 どうしてあの人は緋彩をそんな遠くの高校に入学させた?

 彼女から聞けたあの人の言動では、一見嫌がらせのようにも見えなくはない。

 だが、それだと違和感が残る。

 この違和感の正体は……なんだ?


「唯一信じていた友達と離れ離れになって、私は独りぼっちになりました。……ずっと寂しかった。誰かを信じたかった、愛したかった。でも、誰も信じることは出来ませんでした」

「……それは、当たり前のことだ」

「えっ?」


 伏せていた瞳を揺らしながら彼女は俺の方に振り向く。


「親から素直な愛情を貰えなかった子供が、他人ひとを愛せるわけがない。だから、お前が人を愛せなくてもしょうがないんだよ」

「でも……」

「愛したいんだよな。信じたいんだよな」


 他人を愛せなかったり、信じられない苦しみは俺もよく分かる。

 俺も、他人を信じることは出来ないから。


 でも、そんな俺にだってやれることはある。

 だから……。


「あっ……えっ……?」


 胸の中で、戸惑うような声が聞こえる。

 俺はボロボロになった緋彩の体を優しく、それでいて強く抱き締めた。


 そうして言う。

 俺が今、彼女に出来る最大限を。


「デートの日、俺がお前を愛してやる」

「っ……!」

「あの人から貰えなかった愛情を、俺が注いでやる。お前がまた人を愛せるように、俺がお前を愛してやる。本物の恋人のように、俺がお前を限りなく愛してやる」

「彼方、君……」


 声が震える。

 今にも泣き出しそうだが、それをぐっと我慢している声。

 最後の力を振り絞って、一人で立とうとしているのだろう。


 馬鹿な奴だな。

 寄りかかることの出来る人間が、ここにいるっていうのに。


「……辛かったな」


 だから俺は、彼女を抱き寄せるんだ。


「あ……あぁぁ……!」


 彼女は、今までにないくらい嗚咽を零した。

 決して押し殺しはしない、素直な嗚咽。


 ようやく、寄りかかってくれた。

 そのことに安堵しつつ、俺は彼女を離さないように強く抱き締めながら頭を撫でるのだった。






「——すみませんでした」


 俺の胸に頭突きするような体制で、泣き終えた緋彩はつぶやくように声を上げた。


「お前が謝る必要なんてどこにもない。むしろ、吐き出してくれてよかった」

「……ありがとうございます」

「そっちの方が、謝るよりもずっと活き活きしてるぞ」


 ふっと顔を上げた彼女に微笑みかければ、彼女は顔を濡らしながらも微笑み返してくれる。


「……デートの日、私を愛してくれるんですよね」

「男に二言はない。それに、俺も愛したいからな」

「えっ……そ、それは……」


 瞬間、緋彩は視線を泳がせ始めた。

 頬も、目元にほんのりと色付いている赤色に負けじと染まっていく。


 彼女の様子を見て、俺はようやく自分が失言したのだと気づいた。

 途端に顔が熱くなる。


「い、いや違う! そういう意味じゃない!俺がしたいからするだけであって、だから、お前が気負う必要はないぞって言いたかっただけであって……!」


 乱雑に言葉を並べてあたふたとしていると、彼女の視線が俺を捉えた。

 目を丸くし、次第に笑みが浮かんでくる。


 そうしてついに、彼女は吹き出してしまった。

 手を当ててクスクスと笑っている。


「なっ……!?」


 笑われた……。

 そのことを自覚すれば、頬に更に熱がこもる。


 ひとしきり笑い終えた彼女は、目尻に溜まった涙を拭って言った。


「私も彼方君を愛したいですから、たくさん愛してくださいね」


 満面の笑みで放たれた言葉に、俺はしばらく彼女の顔を見ることが出来なかった。

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