42話 緋彩と、ある男の存在
まだ十六時だというのに、部屋が暗い。
八月上旬にも関わらず光が一つも差してこないのは、空に厚い雲がかかっているからだ。
ニ時間前に雨が降ったはずなのに、天気は一向に良くならない。
むしろ、また雨が降り出しそうなほどだった。
……嫌な天気だ。
天気のせいでこんなにも気分が沈んでいるのかと疑いたかったが、他に思いつく理由が明確すぎて疑う余地すら感じられなかった。
緋彩が「ごめんなさい」と言って部屋を出ていってから一日と五時間が経っただろうか。
今に至るまでずっと、彼女のことが頭から離れなかった。
脳裏に焼き付いているのは、昨日の彼女の泣き崩れそうな顔。
何故あんな顔にさせるまで、俺は彼女のことを気にかけてやれなかったのだろう。
俺が彼女をデートに誘った日、彼女は「用事は、あるにはある」と言っていた。
「沢山はない」や「基本的には暇」という言葉につられてしまって気に留めてはいなかったが、あの用事というのは今日からの不在を指していたのではないのだろうか。
「あるにはある」という遠回しの表現を使ったのは、そのことを俺に言い辛かったからではないのだろうか。
彼女は俺にサインを出してくれていた。
あのとき、彼女は一瞬だが表情に影を落としていた。
なのにそれを目にしていた俺はデートのことで一杯一杯で、彼女の様子になんか全く気にしていなかった。
気づこうと思えば気づけた。
なのに、そのチャンスを俺はみすみす逃してしまった。
……どうして気づいてあげられなかったのだろう。
大きなため息をつくと、俺はソファから立ち上がる。
ずっと後悔していても仕方がない。
この時間帯は惣菜やら何やらが安くなる時間帯だ。
だから俺は、晩飯の確保に気分転換をかねて買い物に行くことにした。
夜は、何を作ろうか——。
◆
案の定というべきか、買い物を挟んだところで胸のもやもやが晴れることはなかった。
帰路をたどる足がとても重く感じる中ゆっくりとマンションを目指し、エレベーターで自室のある階へと上がる。
エレベーターの扉が開き、自室へ続く廊下に足を一歩踏み出した——その時だった。
二人の人影が見えたと同時に、その人影も俺に視線を向けた。
「彼方君……?」
俺の名を呼んだのは緋彩だった。
先程の暗い顔を一変させて、驚いたように目を見開いている。
そして彼女の隣に立っている背の高い男は彼女の声を耳にして同じく目を見開いたあと、俺に忌々しげな視線を送ってきた。
「そうか、お前が……」
男は呟くと、つかつかと俺に歩み寄ってくる。
「っ! やめて、お父さん!」
お父さん……?
そう疑問に思ったのも束の間、俺の目の前にまで迫っていた男は、いきなり俺の顔を殴りつけた。
何か声を上げることもなく、俺はそのまま倒れ込む。
左の頬がジンジンと痛み口の中に鉄の味が広がる中、男は俺に跨り胸倉を掴んだ。
「俺の娘に手を出したのはお前か?」
「な、何を……」
緋彩はさっきこいつのことを「お父さん」と呼んでいた。
だったら、こいつは彼女の父親なのか?
「やめてくださいお父さん! 彼方君を離してください!」
悲痛な叫び声が廊下に響くと、男は俺を睨みつけながら胸倉を離し、ゆっくりと立ち上がる。
「もう緋彩に関わるな、緋彩の部屋の隣に住んでいたとしてもだ。……分かったな」
そう言葉を捨てて、男は立ち去る。
最後に男が見せた苦しそうな表情を、俺は見逃せずにいた。
「か、彼方君! 大丈夫ですか!?」
そう叫んで走り寄ってくる緋彩の顔は濡れていた。
紅潮している頬は何故か、所々が青く変色している。
そんな彼女の姿を目の当たりにした俺は、彼女を安心させるためか思わず笑みを零してしまった。
「おい、なんで泣いてるんだよ」
「だって……だって……!」
呟く彼女の目尻からは、まだ涙が止まらない。
俺が人差し指で彼女の涙を掬っても、一粒、また一粒と彼女の目尻から雫が頬を伝う。
「とりあえず、手当てをしないと……」
「それはお前も同じだろ」
「っ……」
まさに図星といった様子で彼女は口を噤む。
「手当てしてやるから、俺の部屋に来い」
「でも……」
躊躇う緋彩。
自分の父親が俺を傷つけてしまった挙げ句、手当てを受けるのは申し訳ないのだろう。
だから俺は言った。
「一緒にいたい」
「っ——!」
「つまんなかったよ、お前がいないと。だから、今くらい一緒にいさせてくれ」
つまらない、というのは少々語弊がある。
寂しかった。
一人でいる時間というよりは、彼女のいない時間が。
寂しくて、不安でたまらなかった。
だから今は、彼女の温もりが欲しかった。
「うるさくしたから人が出てくるかもしれない。だから、早く中に入ろう」
俺の言葉に納得したのか、それとも彼女も人肌が恋しかったのか。
俺の胸に飛び込んできた彼女は、コクっと頷いた。
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