41話 救いたくて、救えなくて

 リビングに戻ってからも、緋彩との会話はなかった。

 お互いに元々口数の多い方ではなかったので、普段であればこのくらい何も気にしていなかっただろう。

 だが、さっき彼女が俺に見せた怒る姿が喉に刺さった魚の骨のようにしつこく引っかかっていて、俺はどうしようもなく口を噤んでしまう。


 緋彩は気にしていないのかもしれない。

 たまたま俺に見せたのが初めてだったというだけで、意味は特にないのかもしれない。


 だから俺は、彼女に話しかけて見ることにした。


「……緋彩」


 名前を呼べば、彼女はいつもの穏やかな表情でこちらに振り向いた。


「ちゃんとお見送り、出来ましたか?」

「あ、あぁ。『連絡しろよ』って付け足してな」

「美幸さんからの連絡を待つだけじゃなくて、彼方君からもちゃんと連絡してくださいよ。受け身でいたら、本当に受け身だけで終わってしまうかもしれませんから」

「……あぁ」


 儚げに瞳を伏せる緋彩に言葉につまりながらも何とか笑顔を見せて応えれば、彼女も笑顔を返してくれる。


 そうして俺たちは、またいつものように持参した小説を読み始めた。

 しかし、どうも俺は小説に集中出来ずにいた。


 最後の言葉は一体どういう意味で言ったのだろう。


『受け身でいたら、本当に受け身だけで終わってしまうかもしれない』……か。


 この言葉で、緋彩は俺に何を伝えたかったのか。

 どうにも言葉の裏があるように思えて仕方ない。

 そのままの意味で受け取るだけではいけないような気がしていた。


「……そういえば」

「なんだ?」

「さっき、『美幸さんに挨拶をしたい』って彼方君にメッセージを送ったじゃないですか。私が来るまで、美幸さん待っていましたか?」


 申し訳なさそうに聞いてくる緋彩。

 彼女から感じる儚い感情の正体は、もしかしてこれだったのか?

 ずっとこのことが気になっていたから……だから、いつもの調子ではいられなかったのか?


「いや、そんなことはない。もともと朝飯を食べたらすぐに出るつもりだった。緋彩が来たのは俺たちが朝飯を食べ終えて、姉さんが仕事に行く準備をし終えた直後だったから、ナイスタイミングだったよ」

「そうだったんですか。ならよかったです」

「あぁ」


 会話が途切れる。

 ふと緋彩を盗み見れば、彼女は虚ろに目を俯かせていた。

 その視線はもはや小説を捉えていない。


 今まで俺と一緒にいたあの可憐でもの柔らかな彼女はどこにもいなかった。

 それどころか、少しでも風が吹けばその風とともに消えていってしまいそうな儚さと、迷子の子供のような脆さすら醸している。


 既視感を感じたのは、俺と緋彩が初めて言葉を交わした日の帰り。

 緋彩が『他人を好きになれないんです』と告白した時の表情と酷似していたからだろう。


 あのときの彼女は、俺が口を噤んでしまうほど触れ難い雰囲気を醸していた。

 今はきっと、そのとき以上に触れ難い。


 でも、だからこそ俺は彼女に触れずにはいられなかった。


「ひい——」

「彼方君」


 俺が彼女の名前を呼ぶ前に、彼女が俺の名前を呼ぶ。

 か細くも芯のある声に唇を固く結ぶと、彼女が穏やかな笑みを浮かべながらこちらに振り向いた。


「すみません、今日はもう帰ります」

「まだここにいていいんだぞ」

「っ……ありがとうございます。でも、すみません。デートの日まで今日を入れた四日間、用事があるので彼方君の部屋でご飯を作ることは出来ません。休みなんですから、ちゃんと自炊してくださいね」


 そう言ってそそくさと立ち上がる緋彩の細い腕を、俺は思わず掴んでしまった。


「ちょっと待てよ」


 その言葉に、彼女は振り返って俺を見る。


 崩れそうな瞳が互いに交差し合う。


 何かを言いたかった。

 言って、泣き崩れそうな彼女を安心させたかった。

 彼女を、救いたかった。


 でも……。


「……ごめんなさい」


 消え入りそうな声で俺の手を振り払うと、彼女は逃げていった。


 玄関の扉が閉まる音が、やたらと長く部屋に響き渡る。

 耳鳴りのような響きを耳にしながら、俺は床に崩れ落ちた。


「……またか」


 また俺は、何も出来ずに終わるのか。

 何かをしてやりたい。

 その気持ちは、胸が張り裂けそうなくらいある。


 でも、じゃあ俺には何が出来る。

 彼女の抱えている苦しみを何一つ分かってあげられない俺に、彼女の抱えている悩みを何一つ知らない俺に。

 一体何が出来るっていうんだ。


「クソがっ」


 顔を歪ませ、床に思い切り拳を叩きつける。

 掌外沿や小指にジンジンと痛みが走るが、それを気にしている余裕が俺にはなかった。


 俺にやれること。

 緋彩が帰ってきたときに暖かく迎え入れることくらいしか考えつかなかったことが、とても悔しくて、憎たらしかった。

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