第2話 聞かせてください

 そんなわけで、その日はそのまま業務終了の時刻を迎えた。


 タケコさんの弱音は手紙の件のあとからは一度も聞こえてこなかった。



「タケコさん」


「ああおつかれ。あんみつちゃん」


 夜道を歩く背中に声をかけると、お疲れの様子のお姉さんは振り向いて弱く微笑むだけだった。


「ごはん行きません?」

「えっ……」

「聞かせてください」

「なんのこと」

「聞かせてください」

「むー。やだよう」

「お願いします」

「んんー」

「お願いします」

「しゃべんない?」

「しゃべりません」

「彼氏にも?」

「いません」

「いるじゃん。小野寺」

「彼氏じゃないってば!」

「またまた。今日だってジャレてたじゃん」


「え!? いつ……ってもう、話をすり替えないでくださいよ!」


 吠えてばしんとその肩を叩くと、タケコさんは「痛ぁ!」とよろけて近くの電柱に辛そうにもたれた。


「筋肉痛なんだから」


 本当に痛そうにするから「わ、すみません」と慌てた。改めてその顔を見ると、目に涙が浮かんでいて驚いた。


「泣くほど痛かったですか?」


「……ちがうよ」


 答えるとタケコさんは星の広がる秋の夜空に向かって「はーあ」と大きく息をはく。


「よし。飲みいこ」



 こうして『居酒屋』という場所に初めて連れてきてもらったわけだった。


「カシオレと、ウーロン茶ひとつずつ。あと枝豆とタラモサラダとだし巻き、冷奴──」


 タケコさんは慣れた様子でどんどん注文を進める。


「あんみつちゃんは? なんか欲しいものある?」


「や、充分です」


 はいはーい、と言うと「以上で」とメニュー表を閉じた。


 慣れない場所についキョロキョロとしてしまう。遅めの時間ということもあって、会社帰りのサラリーマン風の人たちや、大学生風の人の姿が多い。若い女性だけというのは少なくて、私たちは少し目立っているのかもしれない。


 びっくりするくらいすぐに飲み物が届いて「おつかれ」とグラスを合わせた。


「タケコさん、よく来るんですか」


「ああ居酒屋? もしかしてあんみつちゃん、はじめてだった?」


 こくり、と頷くと「ひゃあ」と仰け反った。どういうリアクションですか、それ。


「ま、一応未成年だもんねぇ」

「一応ってなんですか」


 言いながらちらりとその手元を見る。がんばるパティシエールのタケコさんの手はいつも赤切れだらけ。夏を過ぎたこれからの季節は特に酷くなるらしくて、毎年見るだけでも痛いほど。


「手紙の話……聞いてもいいですか」


 第一便のおつまみが到着したので切り出してみた。酔いが回る前の方がいいと思って。


「あんみつちゃん、転職って考えたことある?」


「えっ!」


 予想だにしない問いに困惑した。転職、つまりシャンティ・フレーズを辞めて、他の場所で働く、ということ。もちろんそれはヴァンドゥーズやパティシエールとは限らない。


「ないです……今のところは」


「だよねぇ」


 言いながらだし巻きをひとつ摘んだ。


「え、そういう話なんですか?」


 慌てて訊ねると「うん」と頷いた。


「え、待って、待ってくださいよタケコさん! 転職するんですか!?」


 立ち上がるほどの勢いで訊ねると、どうどう、と宥められた。そしてタケコさんはバッグから例の白い封筒を取り出した。


『パティシエのタケコさんへ』


 案外丸っこい可愛らしい字だった。


「知らなかったんだけど、この松尾さんって、よく行くイタリアンの店長さんの名前だったんだよね」


「イタリアン……」


 自分が普段あまり使わない言葉が飛び出して動揺した。目の前のタケコさんが急に大人に見えてしまう。


「簡単に言えば、今度お店に専属パティシエを雇うことになったから、私にどうか、っていう話」


「スカウトですか!?」


 驚いて言うとタケコさんは少し笑ってはたはたとその手を振る。


「そんな凄いもんじゃないよ。よく仕事の悩みとか聞いてもらってたから、シャンティ・フレーズのパティシエだってことは知られてて。だから腕やセンスがどうとか、そういうことは抜きでただ『知り合いのパティシエ』っていうことでの話でしょ」


「それでも人柄でスカウトされたってことじゃないですか」


「うわ。ポジティブだね、あんみつちゃん」


 真剣に驚かれても反応に困ります。


「で、どうするんですか」

「どうしよう」


 え……。と見つめ合って止まった。なるほど、悩んでいるわけですか。


「この三年さ、何度も辞めようと思ってきたわけよ」


 そう話すタケコさんは既に酔っているのがわかる。ひとつ目のグラスはあっという間に空っぽになっていた。


「一年目の時は『まだ早いからもうちょっと踏ん張れ』って説得されて」


「はい」聞いた事のある話だ。


「二年目の時は『佳乃よしのさんが抜けることになったからダメ』って言われて」


「はい」これも知ってる。佳乃さんは那須さんの奥さん。妊娠を機に辞めたんだ。


「それで今年は……小野寺くんと厨房なか売り場そと代わってくださいって何度もシェフに言ってるのに『ダメ』ばっかりで」


「え、そんな話してたんですか?」


 それは初耳だった。


「仕事は変わらずキツいし。手もこんなぼろぼろだし」


「タケコさん……」


「那須さんはいじめてくるし、小野寺くんはバカにしてくるし」


「那須さんのは愛情じゃないんですか?」

「ほんとにそう思う?」

「思いませんか?」

「思わないよー。なにが『菩薩の那須』よ」

「あはは……」


 タケコさんも楽しんでるのかと思っていたのになぁ。


「でも那須さんも、居なくなるっていうしねぇ」


「……え!?」




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