第6話 遅きに失した男

 傷と腫れが引くと、結は手鏡を取り出す。

 たしかにあったはずの傷は跡形もなく、顔はこわばり、襟はわずかだが、血で汚れている。西日が差し込み、シャツの白と血の作る影が茜色のコントラストを示した。


「ありがとう、ございます」

「なにがあったか、聞くのは野暮だな。

 けどこれだけは、確認させてもらう。

 ……これは水瀬がやったのか。

 首を振るだけでいい」


 このひとには、解決する手段がある。

 奇妙な青年の声は厳しく、しかし彼ならなんとかしてくれるだろう、気骨を感じられた。

 頷いた結だったが、気がかりになる。


「彼を、あなたはどうするんです」

「けじめはつけさせるよ。たく、とんだDV野郎になり下がったものだ」

「やっぱり、さっきのは――」


 あの『かまいたち』は切原水瀬が起こしたものだと、ようやく理解が、腹の底まで降りてきた。


「彼のせいじゃないんです!

 体調悪いのに、無理に聞こうとしたのは私で、だからひどいことはしないで」

「こうして異能を人に向けるだけで、問題になる。

 ましてやそれで怪我を負わせた……下手すれば、君死んでたよ」

「――、でも」


 教室で見たときの彼を思い出す。

 いつも一人だった、愛想はあっても付き合いが悪いひとという印象だ。部活動に参加せず、深夜のバイトやらなんやらで、いつも憔悴していた。なにを生き急いでいるのか、そんなことは時々感じて。


「知り合い、なので。

 これでクラスで顔合わせるたび、また気まずいとか、嫌だし」


 金紅は嘆息した。


「果たしてきみの親切に、報いてやれるといいがな。

 俺だって、水瀬を

「!」

「あいつに極貧生活で燻ぶられてても困るし、俺の夢を叶えるのには、あいつの力が必要だ。

 それで――見たとこ、鞄を置いてきてしまったか。

 僕が取りに行く間、ここで待っている?」


 結は戸惑いながらも、首を横に振る。


「助けてもらって、図々しいのは承知です。

 でも、一緒に行かせてくれませんか。

 私まだ、彼と話さないと」

「セッティングはしてやれる。

 だが只今コンディション最悪のあいつに、きみを慮る余力はないんじゃないかな」

「わかってます、それでも」


 もう父のことを確かめるつもりはない。

 そんなことはいつでもいい、そんなことより――


(きみを苦しめるその力は――)


「異能って、言いましたか。その、超能力的な」

「おおまかにはその認知でいい。

 極度に発達した空間把握能力から派生する超常、とされるけど、実態は依然未知数だ。

 僕や彼のサイコキネシスは、より具象化した法則を、それぞれが伴っている。

 僕のが『あらゆるものを縫う』のなら、彼の異能は『あらゆるものを断ち切る』力だ」

「斬撃ってこと」

「彼はそれを壊す力だと言う。

 そんな力を物心ついた頃から持っていて、御し得なければ、周囲が彼をどんな風に扱ったか――まぁ、恐怖だよ」

「――」

「両親はあいつを育てる責任を捨てるべきじゃなかった。

 でもそれは『在るだけで人の理を超えている』、狂わせるには十分な理由だ……とは、あいつ自身の言い分でな、俺は今一つぴんとこないんだが。環境が違ったんだろう」


 天縫金紅、彼は己の力を前向きに捉えている。

 かたや水瀬が力をひたかくすのは、その破壊を見せて、狂った人間がいたから。


「あいつには他の異能使いより抜きんでた、才覚があるんだ。

 俺と義母さんが、あいつの力に意義を与える」



 進学するよりずっと前、平坂の実験に協力していたころ、彼の職場でもあった施設の敷地周辺へ、ひとりの少女が迷い込んだ。

 今思えばあれは彼女、藍野結にほかならない。

 見かけた水瀬がすぐに報告すれば、自分の娘だと気づいて途端、あの男は隣にいた水瀬の顔を殴打した。


「なぜもっと早くわからない……!」


 通勤を尾行された落ち度は自分にあるのに、いつになく取り乱し、敷地向こうの少女へ駆け寄ると彼女を抱き寄せて。

 それからここは危険なんだと少女に説くあの男、そして安らいだ少女の顔を見て、ひとり柵の内側にいた自分は何を考えたろう。

 ――殴られるだけの意味?

 あの家族の身勝手極まりない愛を証明するためだけに、他人の俺は殴られて。

 あの冷血漢に家族への情があったことは、心底つまらなかった。

 ……別に自分を惨めだと認めないし、考えない。

 世の中にはただいるだけで愛されない、ゴキブリのようなやつがいる。連中にとって、俺もその一類だったというだけ。

 だったら認めなければいい、社会は俺を愛さない。

 俺は一人で生きて、どっかしらで野垂れ死ぬんだ。

 そのためには、自立しなければならない。

 お前はひとりでも、きちんと生きている……そう大人に、認めさせなければ。


 平坂はきっと俺との約束――「すべての異能を消す」だなんて口先ばかりで、約束を果たせないと当時からすでに薄々察していたし、没後もそれが叶う様子はない。

 ……騙されても構わなかった、あの男を憎む口実は、俺の異能を育み、そのぶん参照のサンプルは増える、あいつでない誰かが、あいつとの叶わない約束に、いずれ辿りついてくれるかもしれないと願っていたのに――


 平坂は俺を二つ、裏切った。

 ひとつは約束を果たさなかったこと、約束にもはや可能性さえないことを、俺に告げなかった。それは後にひさめへ問いただし、確定している。

 もうひとつは――俺に情を見せたことだ。


 施設内へ侵入した、工作員部隊。

 水瀬が初めて異能で人を殺し、殺せるだけの口実を得られたのは、後にも先にも、あの時ぐらいだ。

 晩年平坂の研究は、交感ネットワークとそれを介して異能を補助的に制御する内容だった。当時はまだ交感ネットに軍事的な利用価値も見られており、数年後の現在はそうした活動も後退しかかってはいるが、なくなってはいない。

 少数精鋭らしく、五、六人ほどの侵入者うち三人も斬撃で首を刎ねれば、相手は恐慌に陥ったらしい、損得を抜きに撤退できなかった時点で、向こうはプロ失格である。もっとも俺も、侵入に気づいた時点でまとめて始末できなかった段階で詰めが甘い。

 遺体からマスクを剥げば、明らかに日本人の肌色ではなく。

 そこからは施設内の職員と銃撃戦だったが、職員の殆どは銃を所持していなかったので、水瀬の独壇場と化したのは言うまでもない。

 遅れて平坂がやってきて、隠れていた工作員との間に割って入ると、水瀬は憤りを隠せなかった。

 庇う必要のない位置で割り込み、虫の息になったどうしようもない大人。とんだ茶番を、しかし水瀬は笑えなかった。


「あいつらは、あんたの研究を盗みに来た。

 お世辞にも褒められたものじゃない。

 なんで素人のくせして、割って入った。

 殺すななんて、今さら言うなよ」

「……お前は何も、間違っていない」

「!」


 あの時なにを、あの男は悟ったのか。


「大人は子供を守るものだ――ユイのおかげで、やっとそれを思い出せた……はずだったんだが。

 お前に手を汚させたのは、ひとえに……俺が無能なせいだ。

 ほんとうに……すま……な……い」

「だとしたら、なにもかも――」


 瞳孔は開いた目はもはや生気を宿さない。

 逝ってしまった、介抱してももう遅いという、いやな確信があった。


「遅すぎるだろうが」


 なぜお前などが、俺を庇って死ぬ?

 なぜ俺がお前の慈悲など、受けなければならない?

 それこそもっと血のつながった身内と――もっと時間をかけて、語らい、分かつべきものだったはずだ。

 せめて約束を果たす義理を見せろよ。

 手前の身勝手な理屈だろう、なにが、なにがなにがなにがなにがッ


 俺はもうじゃない――。

 平坂拠邊、貴様はどこまで、的外れな男なんだ。


藍野結あいのむすび、からの、ユイ、か――珍しい呼び換えじゃなかろうに」


 そも、クラスメイトの女子も、そのような愛称で彼女を呼んでいる。鈍いのも大概にしろよ、と、自分をなじる気力も、正直残っていない。

 後に残るのは、不快――ただ、ただ不快ばかり。


「遅すぎるのは、俺も同じ……か」


 俺はこの袋小路から、まったく抜け出せない。

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