9.クライセン家の財政
その1
さて、この世界の風習から話を始めようと思う。
まずは生まれてから3歳までは人としては扱わない。
これはぞんざいに扱うという意味ではない。
この世界、この時代、昔より乳幼児の死亡率はかなり下がったものの、無事に育つかどうかはまだまだ分からなかった。
真名として、命名はするものの、その名は使わずに、一の子とか、二の子とか呼ぶ。
3歳未満の子を本名、まあ、真名になるのだが、それで呼ぶと黄泉の国に連れて行かれてしまうと言う古い伝承のせいだった。
また、他の親から生まれた事区別する為に、親の名前を上に付ける事もある。
エリオの場合は、一の子、もしくは、サリオの一の子と呼ばれていた。
そして、3歳を無事に迎えると、真名が本名になる。
晴れて、エリオが誕生した瞬間である。
その後、7歳までは比較的自由に育てられるが、7歳を過ぎると、大人への準備が始まる。
貴族の子は貴族の子として、農民の子は農民の子として、商人の子は商人の子としての修行の始まりだった。
とは言え、親の職業を継がない子がいない訳でもないし、違う才能を持った子もいる。
そう言う人間は、成人式までジョブチェンジする事となる。
まあ、成人式を迎えた後も、ジョブチェンジする場合も少なくはないのだが……。
そして、16歳を過ぎると成人式を迎え、大人としての人生が始まる。
貴族だろうが、平民だろうが、基本的には陸七三の儀式は守られる事になっていた。
それに合わせて、クライセン家ではもう一つ儀式があった。
10歳前後で、初航海を済ませる事だった。
エリオがちょうど10歳の時、その初航海が行われようとしていた。
エリオの初航海は、元々のクライセン家の根拠地である東方都市ティセルへの航海が予定されていた。
初航海というただの儀式ならば、大体が近場を回って、終わりという事もなくはなかった。
ただ、サリオの強い意向で、折角なのでティセルまで足を伸ばそうという事になった。
エリオは将来の惣領であり、サリオの親バカによる事が影響していた。
だが、決まった日程が何故か一旦キャンセルとなってしまった。
主体性のないエリオは特に失望する事もなく、それに対する感想すらなかった。
主体性がないとは言え、生きる楽しみがない訳ではない。
10歳の子供に生きる楽しみがどうのこうの言っても仕方がない事なのだが……。
まあ、それはともかくとして、エリオは社会見学としての街歩きが結構好きだった。
そして、今、それをしている最中だった。
まあ、そんな事だから、初航海がキャンセルになろうが、お構いなしと言った所だろう。
教育係総括、まあ、そんな職がある訳ではないのだが、便宜上そういう事になっている。
その教育係総括のグライス名誉伯爵に引率され、エリオ、リ・リラ、シャルス、リーメイがその社会見学をしていた。
また、言葉の説明になるのだが、名誉伯爵という公式的にはない。
引退する際に、多大な功績を持った人物に対して、一つ上の爵位が送られ、その労に報いるものである。
そういう事なので、グライス伯爵は国家に多大な貢献をしてきた人物である。
商人から官僚になり、最終的には女王の首席補佐官までになっていたが、5年ほど前に引退していた。
引退後は、仲のいい夫婦で水入らずの生活をしていたが、それも長くは続かなかった。
3年前に妻と死別してしまったからだ。
その時の伯の嘆き様は尋常ではなく、ラ・ライレもかなり心配したほどだった。
かつて世話になり、優れた人物がこのまま朽ち果てていくのを残念に思ったラ・ライレはリ・リラの教育係を命じる事にした。
夫婦には子がなく、子供とのあまり接触経験がなかったが、意外な事に子供との相性は抜群だった。
性格が穏やかで辛抱強かった。
現役時代も部下が失敗しても決して怒号を上げる訳ではなく、しっかりと諭しながら決して見捨てはしなかった。
そう言う性格も幸いしたのかも知れない。
いや、そういう事を見越して、ラ・ライレは伯爵にリ・リラの教育係を任せたのは確かだろう。
ご存知かもしれないが、エリオは自分では何もしていない筈のに、やらかすヤツと周囲に思われる才能の持ち主である。
なので、こう言った人物以外、エリオとうまくコミュニケーションを取れないだろう。
ただ、伯はリ・リラの教育係であり、エリオ以下もおまけで面倒を見ていた。
おまけとは、エリオの他に、シャルス、リーメイである。
そんな伯爵に連れられ、エリオ達4人は街歩きに出ていた。
もっとも、リ・リラの親衛隊も目立たないように周囲を警戒していたのは言うまでもない。
そのような状況下で、5人は雑貨屋に入っていった。
カラン!
入店を知らせる鈴の音が鳴ると、奥から店主らしき中年男が出てきた。
「アキト様、いらっしゃいませ」
店主は伯爵にそう挨拶をした。
「ワーグ、景気はどうだい?」
伯爵はそう挨拶しながら店主へと近付いていった。
後ろに残された子供達は蜘蛛の子を散らす様に、店内へと散らばっていった。
と、普通はなるのだが、そこから離れたのはシャルス1人だけだった。
エリオより1ヶ月程年上なので、子供の中で最年長なのだが、一番落ち着きがないようだ。
とは言え、まだシャルスも10歳。
これが普通だろう。
シャルスは物怖じしない性格、まあ、悪く言ってしまえば、空気読めませんという性格はこの頃から発揮されていた。
主の筈のエリオなんてお構いなしと言った所だった。
エリオの方はまあ、そんな事は気にするような人間ではなかった。
言うまでもないが、主である自覚はこの時だけではなく、その後もなかった。
そんな事より、エリオは2人の大人の会話に興味があるようだった。
話がまた変わるが、この頃のリ・リラは、もの凄い恥ずかしがり屋さんだった。
エリオの後ろを付いていき、エリオがリ・リラの方を見ていない時は常にエリオの裾を掴んでいた。
可愛らしい容姿とその性格からリーランの至宝と呼ばれていた。
まあ、その後もそのように呼ばれているのだが、容姿はともかく、性格は成長するにつれて、大分変わっていった。
立太子の礼の後、もういつでも立派な女王様になれるという世間の評判だ。
変な意味の女王様ではない事はここで明記しておかなくてはならないだろう。
その2人の後ろに静かに立っているのはリーメイだった。
リーメイはもうこの頃からしっかり者としての地位を確立しており、常にリ・リラの傍に控えていた。
「まあ、悪くはないですが、良くない兆候が現れ始めているようです」
ワーグは伯爵にそう答えた。
その口調は忌憚ないといった感じがピッタリだった。
彼の父と伯は古い馴染みであり、その影響でワーグも幼少の頃から伯を見知っていた。
そして、伯爵の分け隔てのない気さくな性格に対して親しみを持っていた。
ただ、ワーグの言葉に先に反応したのはエリオの方だった。
エリオはいつの間にか、伯爵の横に来ていた。
その後にリ・リラとリーメイが付いて来た。
(やれやれ……)
伯爵は楽しげに微笑んでいた。
普通は大人の会話に入ってこようとしているので、苦笑する所だが、性格上そう言う反応になってしまう。
性格上と書いたが、それは伯爵だけではなく、エリオのも差す。
変わり者で、子供らしくない面があるエリオだが、伯爵はその面を否定する事は決してしなかった。
ワーグの方もそれを心得ているようで、やっぱり来たかといった感じでいた。
とは言え、エリオも伯爵もワーグに対して何も言わなかった。
それが却って、話を促す合図のようだった。
「その良くない兆候というのは、一部の物資が不足し始めているようです」
ワーグは促されるままに話を続けた。
そして、興味深げに2人の反応を見ていた。
だが、意外にも反応がなかった。
質問の一つも出てもおかしくないとワーグは感じていた。
「どうも一部の商人が買い占めを行っているようですね」
ワーグは更に続けた。
2人は食い付いてきてはいるが、まだ反応が薄かった。
「それに加えて海賊被害も関係しているようです」
ワーグはこれでどうだと言うばかりにそう言った。
「うーん、父上が仕事をしていないという事ですか……」
エリオはようやく口を開いた。
「えっ!?」
「えっ!?」
エリオの意外な言葉に話したワーグだけではなく、伯爵も驚くと共に気まずそうな表情になった。
たが、エリオの方がより気まずそうと言うか、渋い表情を浮かべていた。
海賊行為を取り締まるのはクライセン家の仕事なので、それが出来ていない以上、エリオの言い分は正しい。
だが、サリオが仕事をサボっている訳ではない。
この時のエリオは、それが分からなかったので、渋い表情をしていた。
あ、まあ、後になっても、父親の仕事を評価していなかったのだが……。
とは言え、父親の人格を否定している訳ではない。
カリスマ性など、自分にはないものばかり持っていたので、大いに尊敬していた。
ええっと、話があちらこちらに拡散してしまった。
父親の仕事の事に戻すが、サボっている訳ではないが、上手く行かない場合がある。
それが分かるようになるのはまだ先の話だった。
そう、全ての責任を自分で負わなくてはならない時までは分からなかった。
「これは父上にきちんと進言しなくては……」
エリオは責任感に目覚めたように噛みしめるようにそう言った。
「え、あ、はい……、よろしくお願いします」
ワーグは何と言っていいか分からないように戸惑っていた。
進言してくれるのは有り難い事で、間違っている訳でもなかった。
とは言え、話がおかしな方向へ向いてしまった事は確かだった。
「現状はどうなんだい?」
伯爵は話の方向性を正す質問をした。
「そうですね、極端に値が上がった訳ではないので、まだ大丈夫です。
ですが、買い占めと海賊被害が増えると、悪循環に陥るでしょうね」
ワーグはそう答えた。
その話を聞いて、エリオはポカンとしていた。
「物の量が減り、買いたい人が増えますと、値上がりします。
そこで、買い占める事により、更に物の量を減らすのです」
伯爵はエリオにそう説明した。
「大師匠、それはとってもあくどいやり方に思えるのですが……」
エリオは伯爵に抗議するように言った。
まあ、伯爵に抗議したのではなく、理不尽に対して抗議しているだが。
伯爵を大師匠と呼ぶのは自分達の教育係の統括だからだ。
エリオは具体的な科目は他の師匠と呼ばれる者から学んでいた。
いずれも立派な者達なのだが、この伯爵は彼らと比べて一段違う場所にいるような雰囲気があった。
子供ながらそう感じていたので、「大師匠」と呼んでいた。
その大師匠はエリオの抗議に苦笑しただけだった。
「???」
エリオは途端に自分が変な事を言ってしまったのかと混乱してしまった。
「エリオ様、仰っている事は正しいのですが、商人という者は元来そう言うものです」
ワーグが大師匠の代わりにそう答え始めた。
大師匠が自分で言うより、商人のワーグが言う方が説得力があると思ったからだろう。
エリオはワーグの言った事に興味を持ったようだった。
先程まで抗議していた姿や混乱した様子もなかった。
「商品を安く仕入れて、高く売る。
その儲けで、我々は生活しています」
ワーグは続けてそう言った。
「それは分かります。
けど、それだと、商人が一方的に有利ではありませんか?
買う側の庶民は高くて損しますし」
エリオは再びその理不尽さに抗議した。
「いえいえ、安く仕入れたと思っているのはその商人だけかも知れませんよ」
ワーグは悪戯っぽく微笑んでいた。
「???」
エリオは訳が分からないと言った表情になっていた。
「物が少ないと、仕入れする時の値段もどんどん上がっていきます。
しかし、ある日、その物が増えた途端、値崩れが起きるのです。
そうなると、商人の方に損害が出ます」
ワーグが更にそう続けた。
「!!!」
エリオはワーグの説明を聞いてギョッとしてしまった。
しかし、すぐに腕組みをして考え込んでしまった。
思わぬ反応に、今度は大師匠とワーグの方がびっくりしていた。
こう言う事に関しては、異常に飲み込みが早いと感じたからだ。
「そうなると、やはり父上がきちんと仕事をしてはいないという事になりますね」
エリオは何故かそう断言してしまった。
子供は自分の親に厳しい傾向があるが、これはその典型例かも知れない。
(やはり、そこに行き着くのか……)
(ああ、結局そうなるか……)
大師匠とワーグは互いにそう思いながら、顔を見合わせてしまった。
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