第19話 一時代の終わり
ガザラの戦いに敗れた英米軍はエジプト領内に撤退し、カイロの西、エル・アラメインに防衛ラインを設定した。7月1日には侵攻して来たドイツ軍との戦闘に突入したが、アメリカの新兵器M4中戦車の活躍もあって膠着状態に陥った。
8月に入ると、チャーチルはエル・アラメインの防衛に当たっていたイギリス第8軍の司令官にバーナード・モンゴメリーを任命。モンゴメリーはアメリカからの豊富な支援によって戦力を整え、11月1日に"スーパーチャージ作戦"を発動。この英米軍の攻勢により戦車を消耗したロンメルは苦境に追い込まれてしまった。
ヒトラーは再三に渡るロンメルの増援要請に答えつつ、外交努力によるエジプトの攻略へ動き出した。ソ連構成国であるジョージア、アルメニア、枢軸国に分割されたギリシャ、枢軸国に加盟しているブルガリアと国境を接するトルコへ参戦を促したのだ。
トルコ共和国第2代大統領イスメト・イノニュは軍の近代化が遅れている状況を鑑みてドイツ、及び英仏からの度重なる参戦要請を拒否していた。フランス降伏後も親独政策を採る事で中立を守っていたが、戦禍が中東に広がるにつれてヒトラーからの圧力は強まり、11月23日、遂に参戦を決めた。
12月に入るとソ連・トルコ連合軍がエジプト北東部へ進撃を開始。これに呼応してロンメルも再びカイロへと迫った。エル・アラメインで東西からの挟撃に遭ったモンゴメリーは12月30日、遂に白旗を上げた。
スエズ運河を抑えたドイツアフリカ軍団はすぐさま反転。イタリア軍の名将ジョヴァンニ・メッセが巧みな防衛戦を展開するチュニジアへと駆け付けた。チュニジア北部から駆逐された米仏軍はアルジェリアへと撤退し、1943年2月には枢軸国軍によるフランス領アルジェリア・モロッコ方面への進撃が始まったのだ。
最早北アフリカ戦線での勝ち目が無い事を悟ったヨーロッパ方面の連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーはアルジェリアからの撤退を決断。2月中に米仏軍の米本土への撤兵が完了し、勝機を失ったスーダンのイギリス軍も降伏。イギリス領ソマリランドでもイタリア軍の進駐が行われ、東アフリカでの戦闘が集結した。
アレキサンドリアの地中海艦隊とジブラルタルのH部隊が合流し、貧弱なイタリア海空軍を退け、接収したイギリス艦隊の再整備に追われるドイツも手を出せずにいたマルタからもイギリス軍が撤退した。
一方、イギリスの最重要植民地と言えるインドに目を向けると、四国同盟が成立した1940年9月27日から4ヶ月も経たない内にソ連軍がパキスタン地方まで進出していた。12月8日に英米と開戦した日本も同盟国タイへと進駐し、タイ国境からイギリス領ビルマへ攻め入っていた。インド帝国西方とビルマでの二正面作戦を強いられたイギリス・インド軍の戦力は分散し、2月29日にはビルマの主要都市マンダレーが陥落。連合国軍はインパール方面へ撤退し、3月末までにビルマ全域が日本軍の手に落ちた。
想定外の早さでビルマを攻略した日本軍は牟田口廉也中将の下、インド北東部の攻略を目指す"インパール作戦"を発動。日中戦争の集結により余力のある日本軍は9個師団からなる第15軍を編成した。
兵站の維持に苦慮しながらも、英印軍捕虜を中心に創設されたインド国民軍の補助を受けながら日本軍は5月15日にインパールを占領。
インパールを拠点にデリーやカルカッタへの侵攻も開始され、7月にはパキスタンから東進を続けるソ連軍とデリーで落ち合った。日ソ両軍を指揮するゲオルギー・ジューコフと牟田口と言う2人の名将は握手を交わし、南方のムンバイへと撤退したイギリス軍の追撃計画について話し合ったと言う。
7月11日に中東軍司令官からインド駐留軍司令官に栄転していたアーチボルド・ウェーヴェル大将は日ソ合流以降の更なる劣勢が明らかになると、ムンバイでの戦闘に突入する直前の31日に降伏した。
インド失陥から2年経ってエジプトも失ってしまった大英帝国は最早完全に崩壊し、かつてパクス=ブリタニカを実現した植民地帝国の終焉は誰の目にも明らかとなっていた。
ゲルマニア yg @usuimishiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ゲルマニアの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます