第18話 砂漠の狐
時は少し遡り、ギリシャが独伊の挟撃を受けて降伏へ追い込まれた頃、ムッソリーニは彼が夢見る地中海ローマ帝国の復活へ向けて動き出していた。
また、本格的なアメリカ太平洋艦隊の反攻への対応、即ち日本海軍との連携にはエジプト及びスエズ運河の掌握が必須であった。
四国同盟を締結してすぐに参謀総長ゲオルギー・ジューコフの下ソ連軍が中東方面やアフガニスタン・インド方面への迅速な進撃を開始し、僅かに4個師団余りの兵力のみが展開されているイギリス勢力圏のイラク、クウェートやフランス勢力圏のシリア地方を抑えていたが、海空で劣勢のソ連軍は運河を奪い取れずにいた。そもそもランドパワーのソ連は海運への関心が薄く、モスクワから遠く離れたアラビアでの補給線の維持も困難であった。
また、1940年6月にはイタリア領東アフリカとイギリス植民地ケニアとの間で戦闘が勃発。当初はケニアやスーダンへイタリア軍が攻勢を掛けていたものの、スエズ運河を抑えられていた為に、本国から補給や増援を送れず苦境に陥る。ソ連軍が度々ヨルダンからイギリス軍の背後を脅かし、本格的な攻勢に出る事が出来ないイギリス軍を相手に持久戦を展開するのが精一杯であった。エジプト侵攻にはこの東アフリカ戦線のイタリア軍を助勢する狙いもあった。
1941年9月13日、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いる5個師団8万人のイタリア第10軍がエジプトへの侵攻を開始。ただ、給水車やトラックが不足し、兵站維持能力に大きな課題を抱えるリビアのイタリア軍は貧弱であった。
それでも戦力の整はない北アフリカ駐留イギリス軍は抗戦せず撤退。16日にはエジプト国境から東に65kmの都市シディ・バラニを占領した。しかし、機械化が遅れ、やはり補給のままならないイタリア軍はここで進軍を停止してしまった。ただでさえ数の少ないイタリア軍の戦車は火力不足の豆戦車・軽戦車が殆どであり、機動戦が物を言う砂漠戦を円滑に進められるだけの戦力を有していなかったのである。
10月に入るとチャーチルやニューヨークに亡命自由フランス政府を打ち立てていたシャルル・ド・ゴールの強い要望もあってアメリカ軍が"トーチ作戦"を実行した。カサブランカ、オラン、アルジェの3地点に別れて上陸した米軍はヴィシー政権に従っていたアルジェリア軍との交渉を纏め、殆ど戦闘は発生せずに20万のフランス軍が連合国に合流する事となった。加えて、カナダやオーストラリアと言ったイギリス自治領から北アフリカへの派兵も行われた。
エジプトのイギリス軍はアルジェリア南部、スーダンを経由してアメリカからの補給や増援を受け、充分に機械化された9万の兵力を以ってイタリアへの反攻作戦、"コンパス作戦"が12月8日に開始された。
イタリア軍もグラツィアーニの要請を受けて1000輛を超える戦車を増派していたが、非力な軽戦車はイギリス軍のマチルダII歩兵戦車※に粉砕された。シディ・バラニ守備隊の多数を占めるリビア人兵士の投降が相次ぎ、エジプト占領地を巡る戦いではイタリア軍3万8000人が捕虜となった。
1月24日にはリビア侵攻を開始した英米軍によりバルディアのイタリア軍4万人が捕虜となり、2月29日までにキレナイカがイギリス軍の手に落ちた。
アメリカの本格参戦とイタリアの敗退に危機感を抱いたヒトラーは直ちにエルヴィン・ロンメルを指揮官とするドイツアフリカ軍団を編成。ヨーロッパ大陸における敵を失ったドイツ軍は20個師団を投入し、北アフリカ戦線の趨勢をロンメルに託した。当初はアフリカ軍団の指揮官としてエーリッヒ・フォン・マンシュタインの名も上がっていたが、モチベーターとしての能力に長けるロンメルがヒトラーによって選ばれた。
米仏軍がヴィシー政権下のチュニジアへ侵攻を開始すると、ムッソリーニはギリシャ戦を経験した精鋭部隊をチュニジアへ派遣。チュニジア北部の要衝ビゼルトやチュニスに防衛線を展開した。
2月12日にリビアに入ったロンメルは3月に本格的な反攻を開始。24日にエル・アゲイラの英米軍を撤退させると、4月にはリビア北東の港湾都市ベンガジを奪回。更にコンパス作戦でイギリス軍野戦指揮官を務めたリチャード・オコーナー中将が捕虜となった。
4月7日には"キレナイカの心臓"と呼ばれる補給拠点メキリを包囲。その後メキリを失った英米軍は総崩れとなり、トブルクを除くキレナイカ地方から撤退した。
キレナイカ東部の要衝トブルクではイギリス決死の抗戦が行われ、ロンメル軍団の攻撃は失敗。イギリス戦車を極度に恐れるイタリア兵は当てにならなかったと言う。
地雷原で固められたトブルクの陥落は困難と判断したロンメルは、トブルクを包囲させたまま東進した。一方、米本土から438輛の戦車の増援を得た英米軍はトブルク救出を目的とした"バトルアクス"作戦を発動。これに対してドイツ軍の88mm高射砲が威力を発揮し、英米の戦車軍団を退けた。
トブルクを諦める訳にはいかない英米軍は11月に"クルセーダー作戦"を発動。24万に迫る兵力の英米軍は遂にトブルクの解囲に成功する。しかし、伸び切った補給線の維持に苦慮する英米軍はここで進撃を停止。
5月26日にロンメルはトブルク西方へ攻勢をかけ、ガザラの戦いを制すると6月21日には遂にトブルクが陥落した。
このトブルクの陥落はイギリス降伏以降目立った戦闘のなかったドイツ本国で大々的に報道され、ロンメルは世界的な英雄としての地位を確立した。チャーチルはシンガポールやハイランドの陥落に匹敵するショックを受け、ロンメルの戦い振りに感動したヒトラーはロンメルをドイツ陸軍史上最年少の元帥に昇進させた。ロンメルの妻ルーシーはロンメルの私邸に届く祝電や贈呈品への対応に追われたと言う。
かくして、世界に雷名轟く"砂漠の狐"名将ロンメルが誕生した。
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※ヴィッカース社により開発された、75mmの装甲厚を誇る歩兵支援戦車。
ドイツ軍のIII号戦車やLT-35の主砲、対戦車砲の徹甲弾に対して有効であったが、攻撃目標の砲兵に対して榴弾を撃ち込めないと言う致命的な欠陥を抱えていた。
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