潜航

「この汚染空気とも暫くお別れだな」


 東の水平線から昇り始めた太陽を艦橋の見張り台から艦長は見つめて呟いた。


「すぐに吸えますよ」


 原子炉から得られる豊富なエネルギーを使い海水を脱塩した上で電気分解により酸素を得られる原潜と違い通常動力型潜水艦は、バッテリー充電のためシュノーケル航行を必要とする。

 そのため一日おきくらいでシュノーケル航行しディーゼルエンジンを動かすとき外気を取り入れるので外気を吸う機会は多い。


「台詞にないな」


 副長の返事に残念そうに艦長が言う。


「まだ続けるんですか」


「君の提案だろう。アラバマごっこは」


 マンネリ化した艦長の出港の挨拶――「Uボート」型の演説にひねりを入れたいと言ってきた艦長に速水が映画に出てきた原潜アラバマの出航シーンをやりましょうか、とふざけて提案した。

 そうしたら、乗組員もノリが良く次々と賛同し、先ほどの出航シーンとなったのだ。

 乗員への受けは良かったし見ていた米海軍の将兵も一時は話題にした。

 ただ、第二潜水隊群司令部の受けは悪く、注意がわざわざ通信文でやって来た。

 グアムでの訓練支援任務なのに核ミサイル発射を巡って内乱が起きる潜水艦映画――米海軍でさえ協力を拒否し、潜水艦の洋上航行シーンを盗撮、もとい二ヶ月間ヘリを借り切って出港スケジュール非公開のオハイオ級が出航する様子を空撮したという作品の真似は不謹慎なのだろう。

 だが、艦長も乗組員も楽しんでいたので良し。

 これから働いて貰う彼らが重要であり、口出ししか出来ない司令部の評価は後回しが艦長の方針だ。


「まあ、君の性格は知っているからな」


「副長失格ですか? それとも殺しに掛かります?」


 その映画の艦長は副長殺しで有名だ。自分も艦長に殺されるのか、パワハラ寸前の評価と命令を受けるのかと副長の速水は身構えた。


「まさか、君ほど有能な副長は知らない。殺したり潰したりしたら、私が忙しくなって仕舞う」


「では何がご不満ですか?」


「君は堅すぎるんだ」


「どういうことです?」


「表面が外向きに整い過ぎているんだ。お陰で誰もが気さくに話しかけてくれる。セオリーやルールに従い相手の望む行動をする。組織では得がたい存在であり価値がある。だが君の内心、本心は結構攻撃的だろう。でもってそれを発散する場がない。せいぜいルールの少ない対抗演習や正体不明の潜水艦相手の時だけだ。普段は結構、ストレスが溜まっているんじゃないか?」


 的確な指摘に速水は黙り込むしかなかった。


「まあ、与えられた情報、ルール、相手の求める範囲の中で最適な動きをする。だが勘が良すぎて次のシチュエーションさえ見通し、現状では最悪でも、次のステージで最適な行動を取っている。指揮官として相応しい。素でやっていればな」


 暫し無言を貫いてから艦長は話を再開した。


「もっと自分を出せ。もう少し荒っぽい指揮でも乗組員は付いていく」


「大丈夫ですかね」


「限界、限度はあるが、君の場合、今の五割増しでも大丈夫だ。君の命令に従えば成功するという信頼があるからな」


「そういうものですか?」


「信頼のなくなった指揮官ほど悲惨な立場はないぞ。敵より味方に被害を与えると判断されたら、乗員は日常的に命令無視を行い始める。逆に自分を活用してくれると思った相手には全力を尽くしてくれるのが人間だ。で、本艦乗組員は君を信頼している。少なくとも君の指揮に問題はない。もう少し思うように動け。多少の失敗はあるだろうが君の場合、許容範囲に収まるよ」


「そうしてみます」


「よろしい。では、そろそろ潜航するとしよう。発令所」


『はっ』


 電話で呼び出された下の発令所から返事が届いた。


「現在の水深は?」


『八二六メートルです』


 東京湾の湾口近辺は深い谷となっており意外と深く、すぐに潜航出来る。

 ただすぐに深くなるので安全深度を超えやすい。そのため海底に着底しアクティブソナーをごまかすのが難しい。

 隠れること――海底に着底出来るかどうか確認するのは潜水艦乗組員の習性と言えた。


「再度測深、海図と照らし合わせて確認しろ」


『了解』


 同時に深度測定装置が正常に作動しているか、も含めての確認だった。

 圧壊深度を超える海底を安全だと表示する機器など、自爆装置と同義だ。

 完璧かどうか出撃前に確認しておきたいのもサブマリナーの習いだ。


「合戦用意! 潜航準備!」


 勇ましく艦長は号令を掛ける。

 潜水艦では潜航に演習も訓練もない。全て実戦であり、合戦準備の号令が掛けられる。

 一つのミスが艦を沈没に導くため決して油断出来ないのが潜水艦だ。


「艦橋より退去せよ」


「総員! 艦橋より退去!」


 艦橋の見張りに立っていた全員に命じ、艦長は下に降りていく。

 速水もハシゴを下りていく。

 全員降りてきたことを確認し、点呼を取り、人数が揃っている事を確認。

 最後に閉められたハッチの閉鎖を確認する。

 全ての作業に幹部の確認が行われるのが潜水艦の日常であり、事故防止のために必要な事だ。

 速水も自分の担当部署で準備が整った事を確認する。


「ブリッジ要員全員退去確認! ハッチ閉鎖確認!」


『こちら機関室! ディーゼルエンジン停止! 排気弁! 吸気弁! 共に閉鎖確認!』


「バッテリー異常なし、比重正常」


「潜航準備整いました」


「総員大丈夫か?」


「はい、船酔いで何人かダウンしていますが」


「仕方ないな」


 船乗りにも船酔いになる人間はいる。

 そして潜水艦乗りは特に多いだ。

 船酔いの原因である船の揺れは海の波によって出来る。

 だがこの波は海面を吹く風によって生み出されるため海面下数十メートルまで行くと影響が殆ど無い。

 水深百メートルより深い海を航行出来る潜水艦ならば、嵐の中でも艦内は揺れないのだ。

 その代償として、浮上時に船酔いする乗組員が出てきてしまう。

 残念な事に今回も船酔いで苦しむ乗員が出てしまった。

 だが潜航すれば、すぐに復活して任務に励んでくれるだろう。


「よし、潜航! ベント開け! トリムダウン五!」


「ベント開きます!」


 バラスト担当者がボタンを押すと同時に、<くろしお>船体の両脇から水が吹き上がる。

 両舷にあるバラストタンクの上部の栓、ベントが解放され、タンクの空気を全て排出し海水を流入させる。

 浮力が大きく減少した<くろしお>は、その黒い船体を海中へ潜らせてゆき海面から姿を消した。


「船体、海面下に入りました」


「よし、一周して周囲を確認したら針路180。南の島グアムで<ちとせ>と一緒にバカンスだ」


「宜候」


 速水は返事をしたあと苦笑した。

 航空隊の支援任務は本当だし最新の母艦設備が整った<ちとせ>をねぐらにバカンス出来る。

 その後が地獄である事を速水と艦長だけが知っていた。

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