第150話 逃走②

ドアを開けると、美紗兎は困ったように笑って立っていた。その姿を見て、茉那はどうしたらいいのかわからなかった。美紗兎のことを見捨てて実家に帰ってきたのに、また美紗兎はこっちに来てしまったみたいだ。


「なんで……、みーちゃん、何しにきたの?」


「茉那さんに会いにきました……」


どれだけ雑に扱っても、美紗兎は茉那の元に戻ってきてくれる。それがとても申し訳なくて、でも、やっぱり嬉しくて、感情がぐちゃぐちゃになってしまう。ずっと一緒にいたいけれど、一刻も早く茉那の元を離れて、本当に大事な人を見つけて、その人と一緒になって欲しい。


「わたし、ずっとみーちゃんからのメッセージ無視してたし、勝手にこっちに帰ってきちゃったのに、なんで来たの?」


「茉那さんに会いたかったからですよ!」


屈託のない笑顔を向ける美紗兎。美紗兎の無邪気な笑みは子どもの頃からずっと見てきた。美紗兎はずっと茉那のことだけを愛し続けてきたらしい。そんなの嬉しくないわけはない。


でも、それじゃダメだ。こんな無邪気で優しい子が、自分みたいにわがままで自分勝手な子に執着するのは、あまりにも勿体なさすぎる。


今までは、美紗兎に恋をしたくないから、美紗兎のことを遠ざけてきた。けれど、今はそれ以上に、美紗兎の大事な時間を茉那への恋心で浪費してしまうのが、申し訳無くて、苦しいという気持ちが強い。


だから、遠ざけるしかないのだ。もう茉那とは関わらなくても良いように。


「じゃあ、わたしは忙しいから、そろそろ帰ってもらってもいいかな」


喉がざらっとして上手く声が出なかった。その言葉が、美紗兎にとってどれくらい酷い言葉なのか、考えるのも怖かった。


「そろそろ帰ってって、わたし大学からここまで急いできたんですよ……? 結構遠かったんですよ……」


美紗兎の声が震えていた。結構というよりも、ちょっとした旅行みたいな距離だ。そんな美紗兎に伝える言葉として、適切なわけがない。


だけど、ごめんね、と心の中で謝りながら、突き放しような言葉を続けた。


「勝手に慌ただしい時に来られても、わたしも困っちゃうよ。これから引っ越しの準備するんだから」


「引っ越し?」


「うん。実家に帰ってきたのは一時的で、また別の家で一人暮らしするつもりだから」


「じゃあ、茉那さんのお家、教えてください! 遊びに行きたいです!」


「ごめんね、教えられない」


淡々とした茉那の声に、美紗兎が「え?」と困ったような声を出した。茉那の心臓がとても早く鼓動しているのがわかった。言いたくない言葉を、小さな声で、早口で伝える。


「みーちゃんともう会いたくないから、大学を辞めて実家に帰ってきたんだから、察してよ」


俯いた状態からチラリと視線を上を向けると、美紗兎の表情が固まっているのがわかった。


「茉那さんはわたしのこと嫌いだったんですか?」


もう美紗兎の顔はこれ以上見られなかった。俯きながら、「嫌い……」と伝えると、美紗兎の呼吸音が聞こえなくなる。


耐えられなくなって、慌てて茉那は「……じゃないけど、みーちゃんにはもう会いたくないんだ」と付け加える。


だけど、会いたくないなんて伝えてショックを受けないわけがない。美紗兎は鼻声になりながら、困ったことを伝えてきた。


「……茉那さんに会うためにわたしも大学辞めたんですから、会ってもらえないんだったら、辞めたのムダになっちゃいます……」


「みーちゃん、なにやってるの? せっかく頑張って勉強して大学入ったのに!」


「茉那さんに会えないんだったら、もう大学にいる意味ないので」


茉那のいる大学目指して、美紗兎は高校時代は遊ばずにずっと勉強をしていた。なのに、今度は茉那を追いかけて苦労して入った大学を辞めてしまうなんて……。


明らかに美紗兎の人生をめちゃくちゃにしてしまっている。先ほどまでは美紗兎の方が大きなショックを受けていたけれど、今度は茉那の目の前が真っ暗になった。美紗兎は茉那と仲良くしてしまったばっかりに、どんどん間違った方向に進んでいってしまっている。


「みーちゃんのバカ……」


茉那は静かに美紗兎のことを抱きしめた。本当に、美紗兎は何をしているのだろうか。


「わたしのことなんて、さっさと捨てて、自由に生きなよ。わたしといても、わたしの都合で振り回されちゃうだけだよ?」


「どんな扱いしてもらっても構いませんよ。わたしはただ、茉那さんのそばにいたいだけですから」


「わたしはみーちゃんが思っているよりも、ずっと自分勝手だよ?」


「もう知ってますよ。いっぱいふりまわされてるんですから」


えへへ、と美紗兎は嬉しそうに笑った。すでに、美紗兎は茉那への愛に沈んでしまっている。きっと、ぬるい切り離し方では美紗兎は茉那への恋心を捨てることはない。


それならば、茉那の方も覚悟を決めなければならない。茉那は、さっきまでの優しい声色をやめて、冷たい声をだした 


「多分、みーちゃんが思っているよりもずっと自分勝手だけど、それでも良いのかな?」


「もちろん、大丈夫ですよ」


そう答える美紗兎の声にも力が入っていた。


「一緒にいたら、わたしの嫌なところいっぱい見て、みーちゃんはもっと傷ついちゃうと思うけど、それでもいいの?」


茉那は背伸びをして、美紗兎の瞳をすぐ真下から、至近距離で覗き込むような体勢になる。鼻先が触れ合っているけれど、そんなことはどうでもいい。


可愛らしい美紗兎の瞳が揺れている。動揺している美紗兎の頬を、茉那はゆっくりと手のひらで抑えた。


「引き下がっておくなら、きっと今だと思うよ? いいの? まだ大学に戻れるなら、戻ったほうがきっと身のためだよ? それでもわたしを選んでも良いの?」


そんな茉那の言葉を聞いて、美紗兎は固唾を飲んだ後、しっかりと頷いた。


「わかった。じゃあ、引っ越し先教えてあげる。いつでもうちに来てくれても、泊まってくれても構わないよ」


感情の無い声で、背伸びをしたまま、美紗兎の耳元で囁いた。


「わたしは自分勝手だから、この間の夜みたいなこといっぱいしちゃうと思うけど、受け入れられる? になれるの?」


今度は美紗兎は、「はい」としっかりと頷いた。やっぱり美紗兎は、ちょっとやそっとのことでは茉那のことを幻滅しない。


それならば、ちょっとやそっとでない扱いをするしかない。そうしなければ美紗兎が目を覚ましてくれないのなら、もうそれでいい。

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