10版 残り5分
「あの、もう降ろす時間なんですけど。致命的なミスでなければ赤字反映も無理です。あと、プレゼンで柿沼デスクが言ってた内容と全然違くて困りました」
「全然」の部分を桃果は一際強調する。
──皮肉の一つでも言わなきゃ、やってられない。
「いや、あれは俺のせいじゃないって。富国マートを主語にするように局長が書き直しを命じてきたんだ。それに行数も常木が……」
柿沼が弁解口調で返す。
局長──。つまりは堂本編集局長の指示で原稿を根本的に書き直したのだ。
──それも含めて整理部に言ってよ。
怒りで胸が波立つ。
──企業部時代から、この人はいつも自己中心的だった。
下唇を噛み締める。
「とにかく早く赤字を反映して! このままじゃ、訂正になっちゃう」
「訂正」という脅し言葉を武器に柿沼が再度促す。
赤字とは、出稿部のデスクが、整理部に原稿を送った後に改稿したものである。整理部員が反映しないと紙面の記事は修正されない。
「おい柿沼!おどれ、こんな時間に何しちょるんじゃ?もう降版時間じゃ!」
河田が怒声と共に、桃果の一面担当席に押し寄せてきた。援軍登場。桃果は心の中でニンマリする。
「常木の原稿に誤字や脱字が複数であって、このままじゃ訂正になっちゃうんですぅ」
柿沼は悲痛に叫ぶ。
常木翠玲は整理部出身の特ダネ記者である
──あの常木さんが、そんなミスするだろうか?
そう思った矢先、桃果の頭上で河田の怒声画破裂する。
「柿沼ァ、記者のミスを直すんが、おどれらデスクの仕事じゃろがぁ?」
河田は、人のせいにする奴が大嫌いだ。
桃果への高圧的な態度はどこへやら。河田の面罵で柿沼は完全に怯む。
チッ──。舌打ちを挟んでから、河田は桃果に命令する。
「まぁええ、桃果ァ。赤字だけでも反映しちゃれ。だが、その後はすぐ降版じゃ!」
「はいっ!」
桃果は快活に応じる。慣れた手つきで、キーボードのコントロールキーと「M」キーを同時に押す。原稿の赤字を反映させる際のショートカットキーである。
「あーっ!」
赤字を反映した瞬間、桃果は叫ぶ。いや、桃果だけでなく河田も叫んでいた。
赤字反映の結果、紙面に計九行分もの空きが生じていた。明かに削りすぎだ。四段で組んでいたリード部分が四行、本文は五行少なくなっている。
「柿沼ァ、おどれ、どして行数を減らしとんじゃいボケェ!」
河田の額の青筋がドクリと波打つ。目は血走っている。
「えっとぉ……じゃあ、ふ、増やしてきます」
自席に戻ろうとする柿沼の背を河田のドスの利いた怒声が貫く。
「柿沼ァ、もうええ。何もすなボケェ!」
舌打ちをしてから、嘆息混じりで桃果に告げる。
「桃果ァ、組み直しじゃい!」
その言葉とほぼ同時。
「河田、待った!」
やや高い声が桃果の鼓膜を刺す。ポマードの香りと共に背後に新たに人が立つ気配があった。振り返るより先に新たな言葉が鼓膜を揺さぶる。
「準トップを四番手に至急下げてくれ! 今すぐやれ!」
振り返るまでもない。編集局長の堂本の声である。
──それよりも今、何て?
桃果はチラリと机上のデジタル時計に視線を這わす。一時二十五分を過ぎた。降版時間まで残り五分。
一度は押さえ込んだはずの焦燥感の熱が、再び体の芯で急速に膨張し始めていた。
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