9版 ティーバック事件

「チェックして大丈夫そうな面は降版じゃ。ええか?」


 編集フロア全体に響き渡るほどの声量で、河田かわだは降版のゴーサインを出す。


「二面、降版します」


「三面、降版します」


「四面、降版します」


「五面、降版します」


 航空機が滑走路から飛び立っていくかの如く、第一グループの島の面担たちが続々と降版していく。残すは桃果の一面のみだ。


 ──何とか間に合った。


 桃果は一面の組み替えを無事に終えた。横見出しにしたことで、結果的には足りなかった行数も埋まった。


「桃果ァ、見出しを確認して大丈夫そうじゃったら降ろせ!ええな⁉︎」


 第一グループのデスクは一人で一〜五面を見る。記者だけでなくデスクも多忙だ。


「はい!」


 桃果の赤ペンを握る力も強くなる。見出しの一文字一文字に赤の斜線をつけて、打ち間違えがないか確認していく。訂正は絶対に出すわけにはいかない。それは至極当たり前のことだ。


 だが、きょうのように十四版ギリギリで飛び込んできた特ダネを巡って、整理部には苦い記憶がある。


 昨年九月。特ダネを巡って複数の編集幹部のクビが飛んだ。

 その日、十四版に飛び込んできた特ダネのリード(前文)は以下である。


【飲料最大手の帝国ビバレッジは十日、静岡県産の「ティーバック」を欧米向けに輸出する方針を固めた。近年、欧米では健康志向の高まりから日本茶の消費量が増加傾向にある。帝国ビバレッジは、六千億円を投資し、複数の国で工場を新たに建設し、「ティーバック」の量産体制を早期に築く。】


 主見出し→欧米にティーバック輸出

 袖見出し→帝国ビバ、六千億円投資で新工場


 当時の整理部一面担当は、黒ベタ白抜きの横見出しで大々的に見出しを打った。無事に降版。他社は報じていない。正真正銘の特ダネだ。戦勝ムードに社内は沸いた。

 だが──。


「あ〜、これティーバッグじゃなくて、ティーバックになっているよ〜」


 それは言葉ではなく悲鳴に近かった。青白い顔をした校閲部長が、幹部席で叫んだのだ。


 「ティーバッグ(Tea Bag)」ではなく「ティーバック(T back)」。

 特ダネを書いた記者は焦る余り、お茶を抽出ちゅうしゅつする小さな袋の「ティーバッグ(Tea Bag)」を、誤って下着の「ティーバック(T back)」で書いてしまった。


 整理部の一面担当も、それに気づかず、本文のティーバック(T back)をコピーして、見出しにペースト。見出しと本文が間違えた状態で誌面化された。


 嘘のような本当の話。ワイドショーも賑わせた世に言う「ティーバック事件」である。


 出稿部、整理部、校閲、幹部席、印刷工場……。訂正よりも、むしろ何重ものチェックを掻い潜り紙面化された事が問題視された。


 結果、特ダネを書いた記者は地方に飛ばされた。当日、幹部席に座っていた編集幹部にも減給や降格という重い処分が下された。


 桃果は机上のデジタル時計を見る。一時二十分十四秒。降版時間は一時半だ。だが、前倒し降版が原則で、降版は早ければ早いほど良い。


 ──見出しに間違いはない。大丈夫だ。降ろそう。


 桃果がマウスのカーソルを降版ボタンに合わせたその時だった。


「ちょっと整理さん、赤字入れているから反映してよ!」


 鼓膜を高圧的な声が犯す。柿沼が背後に立っていた。

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