第24話 ハスラー
「ここ、いい店でしょ」
雑居ビルの一室にあるバー。そこのカウンター席の高いスツールに、男と女が座る。男の足は、床に届かず宙ぶらりん。女の足は、すらりと床まで伸びている。そんな映像を上に向けると、そこにあるのは土井と七号の後姿だ。
土井に誘われ七号は、この店にやって来た。プールバーと言うのか、店内には数台のビリヤードの台があり、タバコの煙に霞むなか、若者や、もしくは、若者に見られたい中年が、その遊びに打ち興じて、BGMの洋楽に負けないように、精いっぱいの気取った会話に笑っている。
そんな店内を見回して、七号はゆっくりと答えた。
「はい、ここはいい店ですね」
どこが、と問われれば答えに窮するが、こう答えておけば大過ないだろう。
「俺のいきつけなんだよね」
大人の遊びをたしなむ男、それがこの俺さ、と言わんばかりに、土井はうざったく言う。そして横文字の酒をバーテンダーに注文する。見よ、この俺の横顔を。ダサさの付け入る隙もないだろう、こんな、プールバーなんて遊び場も知っている。退屈させないぜ。
ところが七号は、スツールの上で背筋を伸ばし、なんにも考えていなかった。退屈と言ってもいい。さっきの十三号と同じく、もう任務は完了したものと思っていて、今の状況は、そのおまけのようなもので、まったくどうでもいいのだった。頭を働かせる必要はどこにもない。
小さなグラスに注がれた酒が出されると、土井はおしゃれな乾杯をしようと、おもむろにグラスを手にした。しかしその間に七号は、さっさと一人で、クイっと酒を飲み干していた。慌てて追いかけるように、土井も酒を飲む。
アルコールも手伝ってか、土井は饒舌に語った。仕事のこと、趣味のこと、学生時代のヤバかったこと。独りよがりのユーモアで繰り広げられる、際限のない問わず語り。七号は自動音声のように「はい」と単調な相槌を打っていたが、土井はそれを気にするどころか、いよいよ舌も滑らかに、自身にまつわる挿話を物語る。あれが、こうして、ああなって、そんで、こうなったんだよね。爆笑(一人だけ)。
「超ウケるよね~」いや、それほどでもない。土井はグラスをあけて、それを粋ぶって置いた。「鈴木さんって、ビリヤードやったことある?」
「いいえ。知識としては知ってますが、やったことはありません」
「マジっ?」と、土井は目を輝かせた。「じゃあさ、俺が教えてあげるよ」
なぜ土井の目が輝いたのか。その答えは簡単で、ビリヤードの玉の撞き方を教えるにあたり、手取り足取り、という言葉を体現して、七号の手やら腰やらを触ろうというのだ。レクチャーに名を借りたセクハラだ。
土井はスツールを飛び降り、七号をビリヤード台へと誘った。
「はいこれ、キューね。そんで、こんな感じに構えてみて」
腰を折って、お手本の姿勢を見せる土井。七号はそれに従った。見様見真似ながら、それは完璧な姿勢だった。非の打ち所はないはずだが、重箱の隅をつつくように、土井がイチャモンをつける。なぜなら触りたいからだ。
「ちょっと違うなぁ」
覆いかぶさるように肩から手を回し、土井は出来る限り、なにかの条例に違反しないギリギリで、七号と密着した。どさくさに紛れて胸なんかにも手をやりたいが、法に触れてまで胸に触れる勇気はない。「こうだよ、こう。へへ」
「わかりました」
別段嫌がるでもなく、七号は言った。
「ああ、そう?」名残惜しくて仕方ないが、土井は七号から離れようとする。その途中に耳元で、「鈴木さん、いいにおいがするね」
酒を飲んでいたから、というだけでは言い訳に足りない気持ちの悪いことを、土井は薄笑いで囁いた。お前を撞いてやろうか、土井。
七号から離れた土井は、重ね重ね気持ちの悪いことに、七号のにおいを肺に留めておきたいのか、大きく深呼吸をした。そして足下をふらつかせる。おっとと、とよろめいた土井が、隣の台の若者とぶつかる。
袖触れ合うも多生の縁、なんて言葉も今は昔、酒に酔い、血気盛んな若者は、目をむいて土井を睨んだ。わめくはもちろん罵詈雑言。本来なら、ぶつかった土井の方が謝るべきなのだが、七号の前で強がりたいから、土井も不必要にがんばる。
「おい、痛えだろテメー」と若者。
「なんだよ、うっせえな」と土井。
二人は何の得にもならないのに喧嘩腰になり、視線を戦わせる。それだけでは治まらず、やがて胸倉のつかみ合いになった。服が伸びる分、やるだけ損だ。
七号はと言うと、そんな二人にはさして興味もなく、目は隣のビリヤード台に向いていた。ナインボールの途中であるらしく、色とりどりの玉が緑のラシャの上で、新しい星座を描くように転がっている。最小ナンバーは三だ。激しくなる口論も馬耳東風で、七号が玉の関係を眺めているところへ、船長からの通信があった。
〈七号、仕事だ〉
〈なんでしょう?〉
〈高橋と島村が店を出た。お前にも動いてもらう必要がある。だから二人の傍で、スタンバイをしておいてほしいのだ。とにかく時間がない〉
〈わかりました〉
そう返事をした直後、七号は隣の台に近寄った。例の若者の仲間と思しき数人が、まだ続いているゴタゴタに野次馬の目を向けていたが、七号が台に近寄ると、いっせいに七号の方を向いた。一様に怪訝な顔だったが、七号が微笑むと、夜空に虹でも見つけたかのように呆然となった。七号は玉を撞く姿勢をとる。やかましく罵り合っていた二人もそれに気付き、何事かとしばし休戦、周囲は静かになった。
七号は、知らない誰かの手玉をスマートに撞いた。小気味良い音、そして、
「土井さん、わたしは帰ります」
まだ台の上では玉が動いている。手玉は三にぶつかり、三はワンクッションし、と物理の法則にしたがった連鎖が、美しく続いている。七号の言葉が聞こえたのか、聞こえないのか、その場の全員が、玉の動向だけに注目していた。それは奇跡と言っていい軌跡だった。無限のパターンのなかの、珠玉のライン。他の玉に遮られ、ポケットとは無縁と思えた九に力が加えられ、それ自身が意思を持ったみたいに、ノロノロとだが、ポケットに転がりはじめる。嘘だろ……、全員がそう思った。
歓喜も興奮もなく、九はポケットに落ちた。
鮮やかな手品のような現象に、彼らの意識は奪われた。もう喧嘩どころではない。見た? と視線に言葉を乗せ、土井と若者は見つめあう。そうして遅れて、拍手を送るべき手品師、美しき撞球の達人に、感奮の目を向けた。そこにあるのは、立てかけられたキュー。もう七号はその場を立ち去っていたのだった。
若者がぽつりと呟いた。
「……プロ?」
いや、ロボなのだ。
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