第8話 曖昧模糊模糊

「どうしたの?」

 同僚に話しかけられて、島村は自分がぼーっとしていたことに気がついた。無防備な顔を見られた照れで、島村はちょっと笑って、

「寝不足なんだよね」

 同僚は、コーヒーを飲みなさい、と現実的なアドバイスをくれる。さっきから飲んでるよ、と島村はカップを手にとって、それに口をつけた。コーヒーはすっかり冷めていた。どうやら思ったよりも長い間、ぼーっとしていたらしい。

 それでもコーヒーを飲み干して、島村は仕事を再開する。剣道大会の記事をまとめなければならない。パソコンのモニターとにらめっこして、キーボードの上の指を動かしていく。

 しかし島村の集中は、段々とほどけていって、いつしか手はぴったりと止まってしまった。考えるのは今朝のこと。

 いや~、今朝は危ないところだった。もう少しでホームから落ちちゃうところだったよ。すぐになんとか気が付いたけど、そうじゃなかったら、今ごろニュースだね。

 それにしても……、と考えかけたところ、

「島村さん、昨日の大会の記事、急いでね」

「あ、はい、わかりました」

 島村は、背筋を伸ばして深呼吸。さ、仕事仕事。座り直すように姿勢を整えて、キーボードを打ちはじめる。

 でも、モニターのなかの文字を見ているうちに、わずかな傾斜で球体が転がるみたいに、頭が勝手に考える。

 ……それにしても。

 島村は思う。

 それにしても、助けた人はどんな人だっけ? 思い出そうとしてみるも、浮かぶのは、ひどくぼやけた写真のような、曖昧模糊とした映像だった。助けた人、そして助けられた人。駅、電車、周囲の人たち。

 しかし、輪郭の希薄なそれらのなか、妙にピントのあっている部分があった。毒ガエルの色をした、ひどい結い方のネクタイ。

 ……どこに売ってるの? あれ。

 島村は短く微笑んで、仕事を再開する。


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