三・七

 ショックのあまり、目を覚ましたようなものだった。

 銃声に驚く鳥のように飛び起きた僕の頭は、混乱の真っ只中にあった。


 何だ。

 一体何が起こった。


 今起きた出来事を思い出す。

 青く輝きだした右手に、謎の幻視体験。全くもって理解できないことばかりだが、僕の身に明らかな異変が起きていたことだけは確かだ。しかし意味が分からない。どんな理屈で右手が突然青く輝きだすことがあるというのだ。それにさっき見えたあの幻覚だ。あれは何だ。恐らくは異国の土地。だが何故そこに何故栞の姿が映っていた。あの声だって、一体誰のものだったんだ。


 クソッたれ。

 理解不能だ。


 僕は布団を跳ねのけ立ち上がると、部屋の中をぐるぐると歩き回った。

 一旦整理しよう。

 僕は霊安室にいて、今しがた栞に最後の別れを告げたところだ。そして部屋を出ようとした時、いきなり右手が光った。その手を彼女の遺体に向けたところ光はより一層強くなり、あの奇妙な幻視体験をした。そして光輪が浮かんで、声が聞こえて、目の前が真っ暗になって、そして——。


「……あれ?」

 ふと気づいて辺りを見渡す。

 ここは僕の部屋ではないか。

 おかしい。さっきまで霊安室だったはずなのに。


「……なんだ、そういうことか」


 僕は真実に気づき、深いため息を吐いた。


 要は単なる夢だったと。さっきのは、栞を目の前で失い錯乱した僕の見たやたらとリアルな夢だったと。つまりはそういうことなのだろう。


 畜生め。

 なんてものを見せやがる。

 最悪の気分だ。


 ベッドに倒れ込んでスマホを見る。

 時刻は七時五分。平日である。

 まずい。完全に遅刻だ。

 どうして両親は起こしてくれなかったのだ。ああ、そういえば今日はどちらも出勤時間が早いのだった。それにしたってよくもまあ呑気に仕事など行けるものだ。栞が死んだというのに。


 ああ、そうか。栞は——。


 刹那、あの惨状がフラッシュバックする。


 ボンネット。

 内臓。

 脚。

 救急車。

 手。

 栞。

 血。

 栞。

 栞。

 栞。

 嘔吐。


 部屋のゴミ箱に思い切り吐いた。胃の中のものを全部出し切ると、体から力が抜けるのが分かった。まるでバッテリー切れのロボットのようにぐったりとベッドに寝転がった。彼女の死が受け入れられない自分が、情けなくて仕方がなかった。


 とりあえず、今日は学校を休もう。

 あんなことがあったのだ。学校になど行ける気がしない。

 それはそうと、早く朝飯を食べなければ。食欲はないが、それでも少しは食べなければならない。僕は階段を降りてリビングへ向かった。


 その時、インターホンのベル音がなった。


 宅配便だろうか。

 ちょうど玄関の近くにいたので、僕はモニターを確認せずそのままドアを開けた。


「こーちゃ、あ、先輩! 何やってるんですか! 遅いですよ! 早くしないと学校遅れます!」


「……え?」

 そこに立っていたのは、死んだはずの栞だった。


「ちょ、な、何で寝巻きのままなの! もうとっくに七時過ぎてるよ!」

「え、な、何で……」

 全身の毛が逆立つのが分かった。

 生きている? 栞が? そんな。だって彼女は昨日間違いなく僕の目の前で死んだはずだ。なのにどうして? これはまた夢なのか? 幻覚なのか? それとも僕がおかしくなったのか?


「こーちゃん! どうしたの? ほら立ってないで、すぐ支度しなくちゃ……や、な、いきなり何を……」

 彼女の頬に触れる。彼女の髪に、首に、肩に、腕に。

 その全てに感触があった。

「実体がある……何で、お前、死んだはずじゃ……」

「人のこと勝手に殺さないでよ。てゆーか、いい加減体中触りまくるのやめて!」

「嘘だ! だって栞は昨日車に轢かれたはずだ! この目で見たんだ! なのにどうして! どうして……」

「こーちゃん? 何かあったの? 今日ホントに変だよ?」

 彼女が僕の顔を心配そうに覗き込んできた。ラピスラズリのように輝く美しいブルーの瞳。間違えようがない。これは彼女の、僕の大好きな人の——。


「栞!」


 気がつくと僕は栞を抱きしめていた。

「ふぇ? わ、こ、こーちゃん?」

 戸惑う彼女を強く抱き寄せ、僕は嗚咽を漏らした。その異様な態度から何かを察したのだろう、栞は僕の背中をぽんと優しく叩いてくれた。

「もう、こーちゃんったら。子供じゃないんだから。どうしたの? 悪い夢でも見た?」

 抱きしめた両手にほのかな温もりを感じた。それは生命の温もり。命があることの証だった。

「よかった……生きてる……栞が生きてる……!」

「そうだよ、生きてるよ。私、生きてる。ちゃんと生きて、ここにいるから」

「本当だ……本当に!」

「今日はもう学校休もう? 一日くらい欠席しても大丈夫だよ」

「ああ! ああ! よかった……よかった……!」

「もう、私が死んじゃうわけないじゃん。だって、昨日はこーちゃんとずっと一緒にいたんだから」

「そうだ、そうだったな……」


 ——待て。

 ずっと一緒にいただと?


「昨日は一緒に軽音部行って、皆で歌って、それから二人で帰ったんだよ? 憶えてないの?」

「なっ、馬鹿な……そんなはずは……」

 そんなはずはない。何故なら昨日僕は雨宮とファミレスに行って、神社に行って、その帰り道に栞は——。


 そこまで思い出して気がついた。

 そうだ。

 僕は。


 ファミレスになど行っていないではないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る