第63話 予兆
その後、店主とフェリクスは話し合いの末、三ヶ月という期限付きで次の住居が見つかるまでは泊まってもいいという結論に至った。勿論その間の家賃は、バイト代から引かれることになるが。
「悪いな。この物置き部屋しか空いてないんだ」
居住スペースである二階に上がり、廊下の一番端にある扉の前で店主が言う。
「全然構いませんよ。寝れる場所があるだけで十分ですし」
「ならよかった。じゃあ、俺は明日の仕込みに戻る。まさかとは思うが、エリナに変なことするなよ?」
店主が眼光を鋭くして忠告すると、フェリクスはぶんぶんと首を横に振った。
「しませんってそんなこと!倫理的にも好み的にも無いですから!」
ガタッ。少し離れたところにあるエリナの部屋から小さな物音がした。
「その言葉通りならいいんだけどな。お前は色々と信用が無さすぎて困る」
「あははっ。これだけは本当ですから。俺、二十歳くらいのスタイル良い娘がタイプなんで」
ガタンッ。再び、今度はさっきより大きな物音がエリナの部屋から響いた。
「二十歳ね。そういうお前は今いくつなんだ?」
「二十二ですね」
「······二十歳が好き。その歳なら問題は無いんだけどな、何故かお前が言うと急に犯罪臭くなる」
「ちょっ!?酷くないですかそれ!」
「静かにしろ。もう夜だし、エリナも寝てるんだぞ」
「あ、すみません。んじゃ、先に失礼するんで、仕事頑張ってください」
とっとと挨拶を済ませて、与えられた物置き部屋に引っ込んで行くフェリクス。一人廊下に残された店主はため息混じりに呟いた。
「なんでこう、面倒事ばかり引き起こすんだろうな」
「うお、想像の倍は汚ねぇな」
定期的に掃除はされているのだろう。目に見えるところにゴミや汚れはない。しかし収納箱や荷物の裏、部屋の隅にはうっすらと埃が積もっていた。
それらを器用なステップで避けながら、さらに室内を見渡していくフェリクス。
「物置き部屋っつうより、ゴミ箱部屋か?」
使えそうな物を入れた収納箱もあるが、それ以上に壊れた家具や使われなくなった鍋などが目立つ。
飲食店は早朝から深夜まで忙しいため、大きな廃棄物を捨てに行く時間を中々作れないのだろう。短い時間でここに移動させたはいいものの、それ以降放置している。そんなところか。
「どうせ暇だしな。三ヶ月お世話になるなら、掃除くらいはするか。まあ、今日は寝るけど」
ちゃっかり三ヶ月間丸々居座る宣言をしつつ、フェリクスは簡単な魔術で埃を除去していく。それから床で横になれるスペースを確保すれば、あっという間に寝床の完成だ。布団も何も無いが、だらけることに関して右に出る者のいないフェリクスであれば、簡単に寝ることが出来る。
「さぁ、寝ようか―――」
ガチャ。最高のタイミングを邪魔するように扉が開かれる。いやいやフェリクスが振り向くと、そこには今にも眠ってしまいそうな様子のエリナがいた。
「は?」
「…だ…………ぃ…」
(だ、い?)
夜中に年頃の女の子が青年の部屋にやって来る。いかがわしい事態に頭がパンクしたフェリクスは、食い入るようにエリナを見つめた。
「お、お?」
もうすぐ夏だからだろう。薄手の白いパジャマを着ている。夜目が利くフェリクスは、ボタンを止める布の僅かな隙間から、少女の柔肌と下着を見てしまった。
「……だ………ぃ………?」
(だ、ぃ?なんだ?はっ。も、ももも、も、も、もしかして、抱いて、か?いやいやいやいやっ!)
十五歳の少女が夜這いに来たと思い狼狽えるフェリクス。その姿には、ついさっき『二十歳くらいのスタイル良い娘がタイプなんで(キリッ』と言っていた頃の面影はない。シャルロットに対する態度といい、ロリコンと疑われても仕方の無い醜態である。
「お、おいエリナ?流石にそれは不味いだろ。親父さんにも約束してるし、そもそも俺は―――」
「…だ……ぃ………ぶ…?」
「な、なんだよ」
(大丈夫、かよ。いや、紛らわしいことすんなっての)
「…こ……れ……」
「これ?」
大きく扉が開かれ、廊下が見える。フェリクスの視界に畳まれた布団が飛び込んで来た。
「使っていいのか?」
こくこく。エリナは小さく頷くと、そのまま眠そうな足取りで自室に戻って行った。
⚪️
翌朝―――というにはまだ暗い時間帯に目覚めたフェリクスは、布団を畳んで部屋を出た。そして一階に降りて、既に仕込みを始めていた店主に声を掛ける。
「はよーございます」
「早いなっ。昨日はそれなりに遅かったのに」
「習慣ってやつですよ。あ、なんか手伝います?」
「いや、別に平気だな」
「じゃあちょっと外出てきますね」
「外?別に構わないが······何するつもりだ?」
「ちょっとした運動ですよ」
「運動?ああ、そういえばお前、それなりに鍛えた体してるからな。そういうことか」
勝手に納得した店主が厨房から許可を出すと、フェリクスはさっさと店を出た。
まだ日が顔を出していない時間。大通りまで出ても、両手で数えられる程度の人影が見られるのみ。
「《ほい》」
存在感を魔術で薄めてしまえば、フェリクスを認識できる人間は一人もいなくなる。そんな状態で、フェリクスは大通りのど真ん中を走り出した。
一歩目、強烈な踏み込みが体を前方に押し出す。ゼロから急激に加速、そのまま常人の全力疾走を上回る速度を維持して走り続ける。そんなことをすれば数秒で息が乱れてくるのが常識だが、フェリクスは顔色一つ変えずに目的地へと向かっていった。
⚪️
目的地の公園で、フェリクスは体を鍛えていた。以前は、これ以上体が衰えないよう、今の肉体を維持するための最低限のトレーニングしかしていなかった。
「九十八―――九十九―――百」
ゆえに百で終わり。ピークを保てればそれで良い。さらに上を目指すつもりはなかった。しかし、今日は―――
「百一」
その先を求めた。しかも一般的なトレーニングから、自らの肉体や戦闘スタイルに最も適したトレーニングへと、負荷の掛け方を変えた上で。
そして、変わったのは筋力トレーニングだけではなかった。普段その後に行うのは歩法の確認なのだが、なんとフェリクスはより実戦的な訓練を始めたのだ。
―――まるで、戦いが起こることを予期しているかのように。
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