線香花火

 夕食を済ませた後、四人で再び海の方へと車を走らせた。日は暮れ、辺りを見回しても人の姿は見当たらない。

 大学生にもなって線香花火なんて、と思いながらも暗がりの海で、俺は他の三人を見よう見まねに花火に火をつけた。


 渡来さんと藤崎さんが向こうの方で何やらはしゃいでいる。恋人同士なのだから特に気にすることでもないのだが、自分にはあんな風に誰かと幸せを分かち合うことができない。体を重ね、ほんの一時なら欲望を満たすことができるかもしれない。しかしそれが長続きすることはないし、それ以上の関係にもなれないばかりか、そもそも自分にはそれ相応の時間すら残されていない。自分には明日を望むことさえ許されないことなのだろうか——そう思うと、堪らなく寂しかった。


 目の前の彼女との関係も、いずれ終わってしまう。三船先輩は何を思っているのか、目線の先の線香花火を見つめていた。


「なんだかんだ、高野くんとは長いよね」


 優しげな口調だった。ちりちりと鳴る線香花火の火花みたいな声が、俺の耳に届く。


「一年くらいは経ったかな?」

「そうですね。あんまり長い気はしませんけど」

「長いよ。だって一年だよ。私、高野くんのことで知らないこと、ほとんどないもん」

「それは言い過ぎです」

「ほんとだよ」


 見れば、彼女はやけに大人びた表情で俺を見てきた。どこまでも変わらない。彼女はいつも俺より数段大人だった。


「信じられないって顔してる」

「信じられませんから」

「なら教えてあげようか」と彼女は言った。「まずさ、高野くんはズボラだよね。気がつくとすぐ部屋は汚くなるし、結構だらしない」

 図星すぎて、ぐうの音も出なかったのだが。「それって貶されてます?」

 苦笑いでそう訊くと、三船先輩は「褒めてるんだよ」と笑った。「私の、高野くんの好きなところだから」

「好きなところ、ですか」

「うん」


 そう言われてしまうと、何も言い返せなかった。線香花火の先端が、ぽつりと雫のように落ちる。

 それから彼女は何個か俺のことについて語った。男なのに女性みたいな髪質、身長が意外に高いところ、いつも周りを気にして一歩引いているとこ、感情の起伏が乏しそうに見えて、実は人懐っこい性格だというところ。さして驚くようなものもなかったが、その間、俺は彼女の顔から目が離せなかった。そして最後に言った言葉が、じんわりと自分の胸臆に沁みる。


「高野くんの声って落ち着く。六月の雨みたい」


 まだ燃え続けていた線香花火の光が、彼女の顔を仄かに照らしているのが見えた。まるでそれは、何かのスポットライトのようにも感じられた。スポットライトが当てられ、その場にいる全員が脇役になる。そのとき彼女を中心に、世界が回っているような気がした。

 やがて彼女の待っていた線香花火も燃え尽き、横から漂ってきた紫色の煙がその顔を隠す。煙草の紫煙のような淡い煙だった。


 直後、「危ないっ」という声と共に、頭から大量の水を被せられた。え、と振り向くと、バケツを持った藤崎さんが、心配そうな顔でこちらを見つめている。


「大丈夫? 熱くない?」

「全然、熱くないですけど……」何事かと思って固まっていると、藤崎さんがほっと安堵の溜息を吐いた。

「よかった。花火の火が、たかのくんの服に燃え移っちゃってて」


 どうやら、そういうことらしい。藤崎さんのおかげで難は逃れたみたいだが、しかし服はびしょ濡れだ。思わず、俺は笑ってしまう。


「何やってんすか」

「ごめん、ごめんね」と藤崎さんも胸の前で手を合わせながら、笑っていた。三船先輩の方に顔を向けると、彼女もくすくすと肩を震わせている。

 衣服が濡れ、体の温度が下がっていくどころか、その瞬間から自分の体温が急速に上がっていくような感じがした。遅れてやって来た渡来さんが、なぜ濡れているのかということには言及せず、「また花火しようぜ。今度はでっかいの」と意気揚々に言った。それを皮切りに、自分がなぜこんな感情になっているのかという理由を何となく理解した。


 俺は今、この状況を楽しいと思ってしまっている。



※ ※ ※ ※

 

 

 幸いなことに、上着として持ってきていたパーカーがあったので、帰りはそれを着て帰ることにした。

 夜の高速。人の話し声の聞こえない直線的な道路には、通り過ぎていくテールランプの光や置いてかれるヘッドライト、項垂れたオレンジの街灯が燦々と連なっている。

 窓の外を眺めると、ちょうど横で大型のトラックが通り過ぎるところだった。見ていると、とても言葉にはできない、何とも言えない寂しさに駆られるのだった。タイヤの震動と音だけがなおも虚しげに響いていた。


「すみません、運転してもらっちゃって」


 俺がそう言うと、三船先輩は「いいよ、全然」とハンドルを持ちながら言った。


「運転とか、できるんですね」

「意外だったでしょ」

「はい」


 彼女が運転をすることになったのには、理由があった。すぐ真上のルームミラーに、後部座席で眠っている渡来さんと藤崎さんが映る。肩を寄せ合い、なかなか起きそうにもない二人。

 疲れて眠ってしまったのだろう、と俺は思った。運転は交代制だったが、渡来さんが眠ってしまったことにより、三船先輩が引き続き受け持つという形になった。後で何か奢ってもらわなきゃ、と彼女は笑った。


「高校を卒業して、割とすぐだったかな」


 そして今、会話をしているのは、俺と三船先輩、二人だけだった。


「偶然、免許を取る機会があってさ」

「だいたいみんな、そのくらいの時期に取りますよね」

「そうそう。私の友達も合宿とかみんなで行ってた」


 自分の周りもそうだった。高校生の頃、進路が決まると、次々と周りの同級生たちは休みの日にどこへ行くかという計画を立てた。そのときに車の免許を取りに行く者たちが、一定数いた。

 自分は結局、誰からも何かに誘われることはなかった。知り合いのいない東京の高校で、また新しく友人を作るという気にはなれなかったからだ。まだ元カノのことも尾を引いていた。


「高野くんは免許とらないの?」

「え、俺ですか?」訊かれて、咄嗟に思考を巡らせた。そもそも考えたことがなかった。

「持ってないなら、取ろうよ」

「それ、色んな人に言われるんですよね」


 社会人になったら、車の免許は持っていて損はないのだと。三船先輩はあははと笑った。


「そうだよー。これから、絶対必要になってくるんだから」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと。彼女が出来たら、ドライブとかに連れてけるよ」

「その予定はないんですけど」

「なら、免許を取った記念として。初めてのドライブは、私と行こうか」


 俺は彼女の方を見た。その桃色の髪が、一定の間隔で外の光に色づけられている。


「だめかな?」

「だめじゃないです」そのとき自分の口から出た言葉は、あまりにも自然だったように思う。むしろそれは好意的だった。「時間はかかりますけど、それでもいいですか」

「うん。来年でも、再来年でもいいよ」


 なるべく早くね、と三船先輩は言う。来年、再来年まで、自分が生きていられる保証はなかった。それを伝えられないまま、俺は彼女と決して守ることのできない口だけの約束をしてしまった。

 舞い上がっていた、のだろうと思う。その気になっていた、のだろうとも思う。しかしずっとこのままでいたいなんて思ってしまったのが、間違いだった。


「来年になったら、もう一度高野くんの歌聴かせてよ」


 三船先輩の声が耳元を通り抜けてゆく。そんな日々が長くは続かないことも、俺はすでに知っているはずだった。



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