海のバーベキュー
長期休みに入るまでにはそれぞれにムラがあった。まず初めに他の大学である藤崎さんが入り、その次に一学年上の三船先輩、そして同じ学部の渡来さんと俺が一足遅れて定期試験を終えた。
八月の上旬のことだった。突き刺す太陽と耳を
ぼんやりとそのことを思い出していると、テレビから「記録的な猛暑日」という地獄のようなフレーズが舞い込んでくる。流れる汗に辟易しながらも、俺は仰向けになっていたベッドから起き上がった。今日は渡来さんたちと海に行くその日だった。
準備をして外に出ると、アパートの下で三船先輩が待っていた。「やぁやぁ」と手を振る彼女に、俺は「暑いっすね」と軽く会釈する。暑いっすねー、と馴れ合いの延長線のような、透き通るような声が彼女から返ってきた。煙草を吸っている人とは思えない透明感があり、蝉の声と比べれば格段に耳心地がよい声。
一言二言どうでもいい会話をしてから、集合場所の駐車場へと向かった。
「よお」と渡来さんが手を掲げているのが見えた。
すでに到着していたようで、白色のセダンの前に藤崎さんと一緒に並んで立っている。彼のジムニーだとさすがに窮屈なので、レンタカーを借りるという話だった。真上から降ってくる太陽の光が、車の外装に反射して頭痛がするほど眩しかった。
「暑くないですか」と挨拶がてら思っていたことを口にすると、そればっかりじゃん、と三船先輩が隣で笑う。渡来さんが「車ん中入れよ。クーラー効いてるぜ」と言うので、お言葉に甘えて乗り込むことにした。その途中、「おはよ」と藤崎さんが目を合わせてきたので、おはようございますと小声で挨拶をしておいた。
目的地は東京からは程遠く、アクアラインに乗って千葉の房総の方へと向かう。小一時間ほどすると、窓の景色は雑多なビル街から見通しの良い海原に様変わりした。
ビー玉を投げ込んだみたいにきらきらと光り輝く海と、その向こう側には薄っすらとだが東京の街並みが見えた。それ以外には木更津の工場地帯や観覧車、海よりも青い空の中心に大規模な入道雲が広がっていた。
歌番組のラジオを小音量で垂れ流しながら、渡来さんたちは海ほたるで買ったあさりまんを味わっている。しかし彼らの会話からは外れて、俺の意識はここではない遠くの街に向けられていた。
それに気づいたのだろう。隣の席に座っていた三船先輩が、「おーい」と人差し指で肩をつついてきた。
「ああ、すいません」思わず鈍い反応になってしまった。
「眠いの?」
そう訊ねられて、俺は小さく首を振ることで応えた。腹の底がむかむかする。自分では意図してない低い声が、口から漏れる。
「俺の地元、ここの近くなんです」
特段、懐かしいなどとは思っていなかった。あの頃のほとんどを俺はその地元とやらに捨ててきた。
だからといって、一回も母親の墓に足を運ぶことができていない言い訳にもならない。この期に及んでもまだ、俺はあのときの後悔に足を引っ張られて二の足すら踏めずにいる。
「へぇ、どこら辺?」ちょうどよく信号が赤に切り変わったタイミングで、渡来さんが車を止め訊いてきた。俺の地元について聞きたいらしい。
「チーバくんで言うところの、お尻の部分です」と俺は答えた。
「チーバくん? なにそれ」
「千葉県のマスコットキャラクターです」
そう言ってみたはいいものの、あまり理解はされなかった。「くまモンみたいな感じかな?」と藤崎さんが助手席から顔を出してきたので、そんな感じですと肯きを返しておいた。正確なことまではわからない。
信号が青に変わり、車がまた走り始めた。
「あ、この曲めっちゃ懐かしい」
垂れ流していたラジオから、自分が高校生だった頃のヒットソングが聞こえてくる。三船先輩のその声に合わせて、渡来さんも同じことを思ったのだろう、機嫌良さそうにボリュームを何段階か上に調整した。
気づけば見えていたはずの東京の街も、外に目を向ければ地平線となって消えている。あの頃好きだった懐かしのメロディーと夏の海。三船先輩の鼻歌を隣で聞きながら、俺はそんな音楽と風景に心を揺さぶられ始めている——。
※ ※ ※ ※
海には、俺たち以外にも大勢の人がいた。家族連れだったり二人組のカップルだったり、水着姿の老若男女が俺たち同様、何らかの目的を持ってここに集まっている。その誰もが、当たり前のように溌剌とした笑みを浮かべているのが見えて、なんだか自分とは根本から違っているように感じられた。
先のある人間と、先のない堕落した人生を送っている人間とでは、幸福の度合いが明らかに偏っていたのだ。ああいう人たちは皆、些細なことで幸せを感じられる。捻くれた考えを持っている自分は、目の前のものを否定しないまでにはどうしても前へ進めない。余裕があるようで余裕ない。それが今の自分だった。
「鹿肉、どうよ」
渡来さんがトングをかちかち鳴らしながら訊いてきた。シュプリームの海パンに、裸の上半身には高価そうな純金のネックレスが目立つ。
海に到着し、三船先輩と藤崎さんが私服から水着に着替える中、俺と渡来さんはバーベキューの機材をレンタルしテントを組み立てた。後からやって来た彼女たちの水着姿に、妙な昂りを覚えた、なんてお決まりの展開もなく、現実は無情なもので、三船先輩は半袖のシャツ、藤崎さんは薄生地のパーカーを水着の上に羽織っていた。
ただし、隠されることなく露出した彼女らの白い脚においては、その限りではない。
ところで、目の前の牛肉やら野菜やらをトングで焼いているのは、渡来さんと三船先輩だ。彼らは焼肉屋に行ったときも同じように肉を焼く係に回る。世の中には頼んでもいないのにも関わらず率先して肉を焼きたがる人たちがいるが、余計なことを省いて言うのならば、彼らがそのタイプだった。俺と藤崎さんは回ってくる肉と野菜を皿により分けながら、すでに焼けている鹿の肉を、口の中に入れる。
「意外といけるかも」と藤崎さんが言った。
「ですね」
持参しておいた鹿肉には、臭みがなく、出来栄えとしても満点に近かった。次々と回ってくる具材を食べつつ、キリのいいところで藤崎さんが離脱した。
「少食だから」ということだった。
少し離れた場所で休憩する彼女に、自分も飲み物を取るついでに近づいてゆく。
「気にしなくていいんだよ?」
そう言われたので、俺は軽い笑みを返した。
「ひとりだと暇じゃないかなって思って」
「だいじょぶ。みんなが食べてる間は浮き輪に空気入れて時間潰しとくし。一応、本もあるんだ」
「本、持ってきてるんですか?」
訊くと、藤崎さんは小さく肯いた。いつもバッグには入れているのだと。
「好きなんですね」
「好きだよ」
また肯いたからか、二つ結びのその髪がまるで何かの耳のように揺れた。
「これはわたしの持論みたいな感じなんだけどさ」
「持論ですか」
「うん」藤崎さんが座りながら遠くの海の方を見つめた。「本を読むとき、いつも内容を性格、文章を見た目っていう風に考えるの。人のね」
いまいち理解することができなくて、俺は首を傾げた。
「たとえば、本の内容がコメディよりの面白いものだったり、シリアスよりの暗いものだったりしたら、それは人で言うところの面白い性格とか、暗い性格の人のこととかを指すの」
「へぇ……文書って言うのは?」
「うん。文体って言うのかな、綺麗な文を読んだときはそれこそ見た目が綺麗なのかなと思うし、ちょっと荒々しい文だと男らしい顔つきなのかなとか……そういう風に思って。こんな例え方をするのもあれだけど、ほら、人は見た目じゃないってよく言うでしょ? 文書がどれだけ汚くても、内容が良ければ時には好きになれたりするんだよ。まあ、その逆もあったりするんだけど」
それを聞いて、俺は渡来さんのことを思い浮かべた。はっきり言って見た目は女性に好かれるような誠実さの欠片もない。性格も安っぽくて決して真面目ではないけれど、俺は彼のことを、嫌いにはどうしてもなれなかった。
藤崎さんが渡来さんのどういうところに惹かれたのかは知らないが、無理に否定するほどのことでもないということは、これまでの関わりからしても理解できることだった。最後に俺は一つだけ気になったことを訊く。
「じゃあ、言葉は何なんですかね」
「言葉?」
「内容は性格、文章は見た目で。なら、人で言うところの言葉は、何なのかなって」
「ああ」と藤崎さんは納得した。「それは台詞だよ」
陽炎じみた夏の風景が、彼女の背中にゆらゆらと浮かび上がっている。
「人の言った言葉って、ほとんどはどうでもいいことで忘れちゃうじゃん。それは台詞も同じで、本を読んでても心に残る台詞って言うのは本当に一握りしかないの。でもその一握りが、忘れられなかったりするんだよね。たかのくんもきっとさ、誰かの言った言葉で、いまだに忘れられないもの、あったりするんじゃない?」
俺は黙考した。誰が言うかによって、その言葉が特別になったりすることがある。
「そうですね」
「なんか、変なこと言っちゃったかな」
藤崎さんは視線を下に置くと、足の指を意味もなく動かしながら笑った。そしてまたしばらくすると、こちらに向かって視線を投げる。
「こういう女の子は、嫌い?」
「嫌いじゃないです」と俺は答えていた。
咄嗟のことでそれしか口にできなかったが、言外に好きですと言っているみたいで、目を逸らした。藤崎さんはそんな俺を面白そうに見つめていた。
テントの影からこぼれる八月の日差しが、だんだんと体の一部を侵食していく。一通りバーベキューを楽しみ、それから食後の休憩を挟んですぐ、俺たちはいよいよ目的の海へと矛先を向ける。渡来さんが浮き輪を持って駆け出し、三船先輩が「ほら、早く」と声をかけてくる中、俺はふと流れる後ろ髪を見て立ち止まった。藤崎さんが目の前でこちらに振り返っている。
「そうだ、一つ言い忘れてたことがあるんだけど」と彼女は言った。つま先に冷たい潮水が当たっている。「その髪の色、あんまり似合ってない気がするな。個人的には、すっごくね」
あまりにストレートに言われてしまったものだから、俺はしばらく彼女に言葉を返せなかった。そっと微笑みかけられ、驚きと戸惑いがないまぜになる。
一呼吸の間を置いて、自分の髪に触れた。金色に艶めくその毛先が、今にも千切れてしまいそうなほどに傷んでいた。まるでそれは、鉄錆びたネジ一本でかろうじて繋ぎ止めてあるだけの、今の自分の心みたいだった。
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