3
その日、僕は初めて綴さんが眠っている姿を見た。作業の途中だったのか、パソコンは開かれたままで倒れたドミノのように机に突っ伏していた。
起こさないように僕はそうっと自分の作業を進める。同僚たちも同じことを考えているのか、その日の研究室はいつもよりも静かだったような気がした。
各々の研究を進め、夕暮れ時になるとまばらに帰宅を始める。いつもであれば、僕もその時間に帰るのだけれども、その日はバイトがないこともあって残って作業を続けた。起きた時の綴さんがどういう反応をするのかが見てみたかったのだ。
生協で簡単な食事とコーヒーを買い、作業を進める。頁を捲る音とキーボードを打つ音だけが虚しく響く。
九時を過ぎたところで一度手を止めて、休憩する。綴さんは今まで眠れていなかった分も眠るように、眠り続けている。煙草を吸いに行こうかとも思ったけれど、その間に起きる可能性を考えるとどうしても席から離れる気にはなれなかった。
ただ、ぼうっとしながら休む。スマホをいじることもなく、ただひたすらにぼうっとする。今までだって勿論真面目に研究をしてきたが、ここまで長い時間集中してやったのは始めてだった。
殆ど空になった缶コーヒーを傾けて残ったほんの少しで口を潤す。缶コーヒー特有の甘ったるさが口に残り、別の飲み物も買っておけばよかったと今更ながらに後悔をした。
どうして、彼女は死に急ぐようなことをしているのだろうか。持て余した思考はそこに着地をする。
研究が好きで、それに没頭をして、その結果死ぬのであれば、僕は好きにすれば良いと思う。本望のうちに死ぬのであれば、それはその人にとってそれ以上ない人生に違いはなくて、他人である僕が口を出すつもりはない。
けれど、綴さんの今の状態はどうも逆な気がしてならないのだ。つまり、死ぬために研究をしているように見えるということ。
荒んだ生活に煙草。縄やナイフを使っていないだけで、まだ一応は生きているというだけで、彼女の生活はゆるやかな自殺のようなものだった。ゆっくりと、しかし確かに、彼女の命は蝕まれていく。
ふと、机に伏した彼女の背中を見る。まさにシュレーディンガーの眠りだった。あの生活をしていた彼女なら、このまま永遠の眠りについたって、なんらおかしくない。
急に不安に駆られ、音を立てないようにしながら急いで綴さんの傍に寄る。身体は小さく呼吸のために動いていて、よく耳を傾ければ寝息も聞くことが出来た。
良かった、と胸をなでおろし、自分の席に戻ろうと一歩退いたところで、がばり、と突然綴さんが起き上がった。
機敏な動きで周囲を確認し、僕を見つけると「今、何時だ?」と聞く。
「二十二時前ですね」
「あー、もう!」
寝起きだとは思えない声で叫んだあとで、急いでパソコンに向き合い始める。どこまで作業をしていたのかの確認だろう。
「良い機会ですし今日くらいは休んだらどうですか」
「今の今まで眠ってしまっていたんだ。これ以上休憩なんてするわけにはいかないだろう」
「切羽詰まっているような状況でもないですし、少し休憩しても大丈夫ですよ。むしろ、綴さんは休憩をすべきだと思いますし」
「だから!」
ばん、という音に思わずびくりと身体を震わせる。綴さん自身も、ここまで強く机を叩くつもりはなかったのか戸惑ったように少しの間沈黙をしてから「だから、駄目なんだよ」と小さく呟いた。
くしゃくしゃと頭を掻いてから、彼女は再びパソコンに向かい合おうとする。
今しかないと思った。
僕はキーボードを叩くよりも先に綴さんの腕を掴み、作業を止めさせる。
「……離してくれ」
「休んでください」
「断る」
「死にますよ、本当に」
「別に、死んだって良いんだよ、私は」
そう言った綴さんの目はゾッとするほどに深く、黒くて思わず退いてしまいそうになったが、それでもと僕は強く睨み返す。
「勘弁してくださいよ。綴さんに死なれちゃ寝覚めが悪い」
「君の寝覚めなんか知ったものか」
そりゃあ、そうだろうけど。
「良いからこの手を離せよ。セクハラだと騒ぐぞ」
「同僚が過労で死のうものならもっとひどい騒ぎになるでしょうね」
綴さんのオーバーワークは誰に命令されたものでもなく、彼女自身によるものだ。しかし、周りはそんなことは知らないし、関係がない。どこそこの研究室で過労死者が出たという事実だけが伝えられ、広まり、そして残る。彼女を止めるために咄嗟に言ったことではあったが、これは事実でもあった。
綴さんも自身それは本望ではなかったのか「分かったよ」と力なく言い、パソコンを閉じた。ひとまずは、これでいい。
ただ、これはひとまずに過ぎず、根本的な問題の解決にはなっていない。今日が終われば彼女はまた睡眠を削るような、命を削るような生活に戻る。それじゃあ元の木阿弥だ。
「どうして、そんな生き方をするんですか」
気づいた時には、そう呟いていた。それは明らかに踏み入り過ぎた質問で、しかし取り消すには既にはっきりと言ってしまっていた。
綴さんは瞑目をして少し物を思ったあとでふと立ち上がった。帰るのだろうか。それもまた、当然のことのように思える。
しかし、綴さんはどこにも行かないままで「煙草」と言った。
「はい?」
「吸いながら話そう。寝ぼけたままで話すのは好きじゃないんだ」
それだけ言って綴さんは歩き始める。僕も、急いでその後を追う。
人の影の見えないしんとした構内を沈黙を抱えたまま並んで歩く。今更考えることはない。既に賽は投げられた。ゆえに僕はただ歩き続ける。隣を歩く彼女がどんな表情をしているのかは分からない。
研究室から喫煙所までの道は決して遠いと言うほどの距離ではない。けれど、その道がやけに長く感じる。二人の歩く足音が妙に響いているように錯覚する。
いつか忘れ物をした時と同じように、喫煙所は暗かった。綴さんは流れるように煙草に火を点ける。僕も吸おうとポケットを探ったが、そう言えば切れているんだったと思い出す。帰り道で買おうと思っていたが、綴さんが起きるのを待っていて買えていなかったのだ。
「ん、持ってないのか」
そう言って綴さんは開いた煙草の箱をこちらに差し出す。
「いや、良いですよ」
「一人だけ吸うのは些か気が引ける。まあ、いつかの火の礼だとでも思ってくれよ」
そこまで言われて固辞をするのも失礼だと思い、ありがたく一本抜き取り火を点ける。
吸って、ハイライトのタールの重さに驚く。一度吸ったことはあるはずだが、メビウスに慣れている分思っていたよりもタールがキツかった。
僕とは違い普段から吸っている綴さんは綽綽とした様子でハイライトをくゆらせる。この人は、どれくらいこの煙草を吸っているんだろうか。
喫煙所での沈黙は紫煙が満たし、誤魔化してくれた。僕らはただ黙々と与えられた仕事のように煙草を吸い、煙を吐き、夜に身を委ねる。
「私は、研究は研究のために行われるものだと思っている」
綴さんがそう口を開いたのは、二人して一本の煙草を吸い終えた後だった。
「この話は前もしたかな」
「その部分だけ聞きましたね」
「私みたいないる意味も分からないような研究者だって、アインシュタインだって、多分その部分は変わらないんだよ。どんな世紀の発見も――、それこそ相対性理論だって、偉大なことをしようと思ってやっていたんじゃない。そこに問題があったから、きっとアインシュタインは解いたんだろうさ」
それはそうなんだろうと思う。名誉や金を得るためにやるには、研究というのはあまりにも曖昧で朧気だ。ただ、熱意と使命感だけが研究者を動かし続けるのだろう。
「研究のために研究をする。まるで純真で熱心みたいな言い方だが、このトートロジー的な動機はね、逃げ道を失くし、世界を閉塞的にさせる。誰もがそうなるとは言わないけどね、私の場合はそうなった」
綴さんはそこまで言ってもう一本煙草に火を点ける。
「研究だけがアイデンティティになってしまったんだよ。これで天才だったら良かったさ。けどね、私は凡才だったんだ。どうしようもなく、才能がなかったんだよ」
惨めなことさ、と彼女は続ける。否定も肯定も出来ない僕は、ただ次の言葉を待つことしか出来ない。
「分かっているよ、私にはタイムマシンは作れない。教科書に載ることはおろか、何十年もすれば私如きの名前なんてどこからも消えるだろうね。消えなくたって、それはあるだけでないのと変わらない。惰性的に残っているだけのことだ。そうなるということは、私が一番分かっているんだ」
だから、という言葉が夜の喫煙所の床に吐き捨てられる。
「だから、私は天才じゃないから、それでも天才に近づくためにこうするしかないんだよ。それで死ぬならそれで良いんだよ」
「それは、本当に研究のための研究なんですか」
「……さあね。最早その当たり前の前提すらも形骸化している気がするよ。やるべきということになっているからやっているだけで、慣習的に続けているだけで」
私は、何をしているんだろうな、と綴さんは呟き、それから、闇に揺蕩わせていた視線を突然こちらに向けた。
「つまらない話だろう? ただ、自分に呪われただけの話だよ。カタルシスもドラマツルギーも、ヤマもオチもない、インタールードにすらならない、くだらないモノローグさ。そして、モノローグに救いはないものだよ」
綴さんはそう言って笑った。何か大切なモノを捨てたような、哀しい笑い方だった。
「ここまで言われた手前、今日は休むよ。でも、私は明日からまた死ぬように生きるだろうね。それでも、生きるために生きるのは辛いから、こうするしかないんだ。惰性でもなんでも、唯一の生きる理由に縋るしかないんだよ」
僕は、何も言えないままでただ彼女の話を聞いているしかなかった。個人的な生き方に干渉する権利も、技術も、勇気も、僕にはない。
まだ吸えるハイライトを、綴さんは灰皿に押し付けて消した。煙と小さな灯りは消え、沈黙だけが痛々しく僕らの間に残っていた。
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