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「まだカロリーメイト食ってるんですか」


 バイト終わりに寄った二十三時半の研究室。呆れたようにそう言うと、パソコンに向かい合いあいながらカロリーメイトを手にしていた綴さんは「ああ」と面をあげた。


「どうしてこの時間に蓮見君が?」


「忘れ物ですよ。そうでもなければこんな時間にわざわざ研究室なんて来ません」


「わざわざ来ている人が目の前にいるのだけれども」


「ええ、本当に理解が出来ませんよ。されたいとも思っていないでしょうけど」


「全くだよ」


 くつくつと綴さんは笑い、書き途中だったデータを保存してから席を立つ。


「邪魔しちゃいましたか?」


「いや、良い機会だし少し休憩をと思ってね。ああ、鍵は私が持っているから君はそのまま帰ってくれて良いよ」


 そうして綴さんは「じゃあ」と言い、研究室を出る。


 残された僕は彼女の作業の残骸に目を移す。パソコンと、カロリーメイトと、論文と参考文献の山。いつも綴さんが陣取っているその一帯は研究室の中でも切り取られたような、異質で不思議な空間を作り出していた。


 せめて、整理でもすればいいのにというほどの荒れように思わずため息のようなものが出る。他に目がいかないほどに研究に没頭している、と言えば聞こえはいいが、それでも睡眠や食事と同じくもう少しはなんとかならないものなのだろうか。気にはなるものの、当然プライベートスペースに手をつけるわけにもいかず、僕は当初の目的通りに忘れ物を取ってから研究室を出る。


 ふと、煙草が吸いたくなった。あるいは、それは単なる言い訳なのかもしれないということを自覚しつつ、僕は喫煙室の方に足を向ける。


 もう殆どの人間が出払っている暗い大学の構内はしんとしていて、僕の歩く音だけが淡々と響くのみで、その形容しがたい不気味さから逃げるように足を早める。


 とはいえ、当然のように喫煙室だって明るくはない。ようやく着いたそこはむしろ他よりも暗いような気すらして、踵を返そうかと若干思い悩むほどだった。


 しかし、ぼうっとした橙色の煙草の火が見えて、意を決し喫煙室に入る。これで全く知らない人だったらどうしようか、なんてことを思いながら。


「ぅわっ!」


 突然の闖入者に驚いたのか、橙色の火が、カーブを曲がるテールランプのように大きく揺れた。その驚きようは、普段の彼女からは想像も出来ないようなもので、愉快な気持ちになりながら「僕です、蓮見です」と素性を告げる。


「あ、ああ、なんだ、蓮見君か」


 正体が分かって安心したのか、声には安堵が含まれ、取り乱したような雰囲気は掻き消える。ゆらゆらと彷徨っていた灯りも落ち着きを取り戻す。


「何か連絡事項でもあったかな? ああ、言っておくが私は暫くパソコンに貼りついていたものだから君の忘れ物の行方について聞かれても知らぬ存ぜぬと言うしかないぞ」


「連絡事項もありませんし、忘れ物に関してはもう見つかったので大丈夫です。単に、僕も吸いに来ただけですよ。バイト終わりでここに来て、少し疲れているんです」


 事実、今日は忙しくて一本も吸えておらず、身体がニコチンを欲していたのも確かだった。


「ご相伴に預かっても?」


「喫煙所は誰のものでもないよ」


 それだけ言って、ふう、と煙を吐く音がした。僕はポケットからまだ開けたばかりの箱を取り出し、一本抜き取り火を点ける。


 美味いのかどうかももう分からない紫煙を味わう。もう少しキツイものに変えても良いのかもしれないと度々思うが、これ以上身体に悪いものに変えるのは、と思ってしまう。今更という話ではあるんだけれども。


「いつから作業してたんですか」


「そんなに長い時間はしていないよ。昨日は仮眠とシャワーを兼ねて一度家に帰ったんだ」


「家でくらい仮眠じゃなくてちゃんと寝てくださいよ」


「ああ、分かったよ。考えておく」


 考えておく、とは行けたら行く、みたいなものだ。つまり考えないということ。


「どうしてそんなに眠るのを頑なに拒否するんです。人間の三大欲求のひとつですよ。することは恥じるようなことではないし、むしろ生命維持のためには当然のように必要なものだ」


「逆に、私からすればどうしてみんな好んで眠りたがるのかが理解が出来ないけどね」


「好んでるわけじゃないでしょう。好むと好まざるに関わらず、とるものなんですよ。とってしまうもの、と言っても良いかもしれませんがね」


「しかし、人間の素晴らしいところは理性だと声高に言われているだろう。現に、同じ三大欲求である性欲に従うままに異性を襲いでもしたら変態の犯罪者だ。誰もが性欲を抑えているように、睡眠欲だって抑えられるはずじゃあないのかい」


「性欲は自慰行為によって発散が出来るでしょう。睡眠に代替となる行為は存在しませんよ」


「仮眠で十分だという話だよ。つまり、もっと短い、最低限度の睡眠で事足りるということだ。いたずらに惰眠を貪るではなく、もっと効率的に眠るべきだということだよ」


 効率的に眠るべき。


 頭が痛くなる言葉だった。眠りまで効率を求められるなんて勘弁願いたい。


 綴さんは一度、深く煙草を口にしてから吸った時間よりも少しだけ長く煙を吐く。暗闇にも目が慣れ始め、なんとなく煙の中のアンニュイな表情が見える。


「例えば。君はヒュプノスという神を知っているかい?」


「さあ?」


「ギリシア神話における眠りの神様だよ。夜の女神であるニュクスの子供だ」


「なるほど?」


 突然始まったギリシア神話の話に思わず疑問符をつけて相槌を打ってしまう。しかし、置いて行かれた僕のことなど特に気にも留めないままで綴さんは言葉を続ける。


「ニュクスには子供がたくさんいてね、つまりヒュプノスにはたくさん兄弟がいるということなんだが、そのなかでもヒュプノスとよくセットで語られる神がいる。タナトスだ」


「ああ、タナトス」


 それくらいは自分でもなんとなくは知っていた。エロスの対極の存在であるタナトス。死を司る神。転じて、死そのものの意味で使われることも多い単語だ。


「眠りと死は相似なんだよ。同じ、無意識に身を委ねるという意味でね。いつものように床に就いて、そのまま起きることがないという可能性を、誰が否定出来る」


「シュレーディンガーの眠りですね」


「その使い方は間違っているけどね」


「まあ、そうですけど」


 元々、シュレーディンガーの猫というものは量子力学の穴を指摘したものであって、重なった可能性みたいな複雑な話をするものじゃない。聞いた話によると、このような誤った使い方をするのは日本だけとかなんとか。


「古代ギリシア人に限らず、日本人だって死ぬことを『永遠の眠りに就く』とか言うだろう。私からすれば、逆にどうして眠ることが怖くないのかと聞きたいくらいだね」


「本気で言ってます?」


「半分は冗談さ」


 半分は本当だと。


 どこまでが冗談でどこまでが本当なのかは、未だ付き合いの浅い僕には分からない。ただ分かったのは、思ったよりも饒舌な人だと言うことだった。それと、物言わずに研究に没頭している姿だけを見て人柄を決めつける自らの愚かさも。


「まあ、せめて身体がもつ限り、私は睡眠は出来る限り削るさ。削らないといけないからね」


「時間が勿体ないからですか?」


「そうだね、そんなところだ」


 何かに追われるようなその言葉に違和感を覚える。


 研究というものは一分一秒を急くようなものではない。むしろ、途方もないほどに長期的なものである。無駄な研究というものはないけれど、それでも自分のした研究は無駄だったんじゃないかと思うことだって少なくはない。だから、命を削るように今を生きる彼女の生き方は、研究者的ではない。


 そんなことは、彼女だって、あるいはむしろ研究に没頭している彼女だからこそ知っているはずだろうに。


 しかし、その違和感が解消されることはないままで綴さんは「そろそろ私は戻るよ」と言い煙草を灰皿に押し付ける。元々小さかった灯りはいとも容易く消える。


 呼び止める言葉なんていうものは持ち合わせていなくて、僕はただ喫煙所から去って行く綴さんを見送る。


 喫煙所には僕と吸い殻と沈黙だけが残されて、僕はまだ少しだけ吸えるメビウスを灰皿に押し付けてから後を追うように喫煙所を出た。

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