イナーシャは眠らない。
しがない
1
彼女も人間である以上、それは誇張された噂話であるはずだけれど、しかし、もしかしたら、と思わせるほどに彼女は常に起きていた。
研究室か喫煙所。大体どの時間でもどちらかに向かえば誰でも簡単に彼女に会うことが出来る。まるでゲームのノンプレイヤーキャラクターだ。
そりゃあ、僕だってわざわざ院にまで進んでいるのだ。研究は嫌いじゃない。けれど、人間的生活を棄却するような彼女の姿勢は、僕にはどうしても理解のし難いものがあった。あるいは、もっと直截的な言い方をしてしまうのなら怖ろしいとさえ思っていた。
だからこそ、一人きりだった喫煙室に彼女が入って来た時、どうこの場から出ようかというのが真っ先に思ったことだった。
すぐに出るのはあからさますぎるし、何より手元の煙草はまだ十分な長さがある。これをやすやすと灰皿に捨てられるほど、院生というのは裕福じゃない。
それにそもそも綴さんは寡黙なタイプで、わざわざ話しかけられることなんてそう有り得ない。ただ、何事もないように煙草をふかしていればそれで良いのだ。
カチ、カチ、とライターの火を点けようとする音がする。意識を逸らすためにポケットに入ったメビウスの箱を触る。確か残りは四本。あと二日もつかどうかといったところだろう。
寂し気な財布と汚れ切った肺が促す禁煙を無視しながら紫煙を吸いこむ。何か捌け口がないとやってられなくて、本来捌け口とすべき趣味なんて持てる時間もない。とはいえ、研究者が全員煙草をやっているわけでもない以上、どう足掻いても単に僕が悪いという結論に落ち着くことには変わりがないんだけれども。それでも、仕方ないじゃないかと自分自身に言い訳をしながら煙草を吸う。吐き出した煙に身を沈めていく。
「失礼」
その突然の声に、思わずびくりと身体を動かして反応してしまう。
「は、はい?」
みっともない驚きようを誤魔化すために吐いた言葉はむしろみっともなさに拍車をかけるようなもので、一瞬にして自己嫌悪に陥る。しかし、声の主は僕のそんな心中など全く興味もないようで、淡々とした声色で言葉を続ける。
「ライターを貸して貰ってもいいかな。ガスが切れてしまって」
「あ、ああ。どうぞ」
コンビニで買ったライターを差し出すと綴さんは慣れた手付きで自らの煙草に火を点け、「ありがとう」と言い僕にライターを返す。銘柄はハイライトだった。
女性に貸すような機会があるのであればもっとまともなライターを使っていれば良かったと、くだらないプライドが無視は出来る程度に小さな声で囁く。
彼女は気だるげな表情で煙草に口をつける。美味いから吸うというよりも、吸うために吸うというヘビースモーカーの吸い方。哀しいかな、僕もそれに片足を突っ込んでいる身なゆえ、なんとなくそれが分かってしまうのだ。
濃いクマに伸ばしっぱなしで手入れのされていないであろう髪の毛、ヤニで黄ばんだ白衣。改めて見てみると、綴さんはマッドサイエンティストという言葉がいやに似合った風貌をしている。
失礼な話だが、少しだけ羅生門の老婆が頭をよぎった。やつれたような、それでいて鬼気迫るような雰囲気というものが重なって見えたのだろう。
「……なにか?」
あくまでも淡々とした表情で、綴さんは僕の方を見ていた。
「あー」とばつの悪い声を出してから何か話すことはないのかと考える。なんでもないというには、彼女の方を見過ぎていた。何も言わないという選択肢は最早取りようがなくて、しかしまさか「今貴方のことを羅生門の老婆みたいだと思っていたんですよ」と言うわけにもいかない。
ただ、それにしても「綴さんって、いつ寝てるんですか?」という質問は、我ながら酷かったと、言ってからすぐにでも気が付いた。あまりにも、脈絡がなさすぎる。
しかし、当の本人はさして気にしていなかったみたいで「いつ寝てるかかあ」とぼんやり呟く。
「時間がある時にしているからまちまちかな。昼に寝る時もあるし、夜に寝る時もある」
「時間がある時にする」
「ああ」
思わず鸚鵡返しをしてしまった。睡眠とは好むと好まざるに関わらずに行われるものであり、少なくともそんな取り敢えずみたいなモチベーションでするものではないと思っていたが、言葉ぶりからするに彼女にとってはそうではないらしい。
「昨日はどれくらい寝たんです?」
「多分四時間くらいかな」
一応寝てはいるらしい。いや、四時間でも十分短いんだけれど、寝ていないという有り得ない最悪の想定があったせいで普通に眠っているように思えてしまう。
「四時間で大丈夫なものなんです?」
「まあ、なんとかやっているよ。幸い、この通り生きている」
「死ななければ良いという話でもないと思うんですけどね」
「かの欠陥辞書を持っていることで有名なナポレオン・ボナパルトの睡眠時間はたったの三時間だ。私は彼よりも一時間も寝ている」
「より短い人を持ち出したところで四時間の短さは変わりませんよ。もう少し寝たらどうです」
「時間が勿体ないだろう」
それを言うなら今こうしているような喫煙の時間でも削って眠れば良いのではないか、というのは同じ喫煙者の身としてなかなか言えることではなかった。睡眠のような無意識的なものよりも、それこそ煙草のような意識的なものの方が精神的には息抜きになるのだ。そんな気がする。実際のところは知らない。
「そんなに研究が好きなんですか?」
「……そうだね。好きだよ。修辞表現ではなく言葉通り、寝食を惜しむほどにはね」
寝食。ということはつまり寝だけでなく食も惜しんでいるというわけで。
「……綴さんっていつも何食べてるんですか?」
「栄養食が多いよ。カロリーメイトとか、そういうの」
「ああ……」
案の定というか、不健康な食生活だった。やつれて見えるのも納得というものだ。
「長続きしませんよ、その生活。僕らだってもう若くない。無理をしてもなんとかなるって歳じゃないでしょう」
「煙草なんて吸ってる時点で長続きさせようだなんて思っちゃいないよ。……私はただ、今を精一杯生きているだけさ」
ものは言いようだ。つくづく、そう思った。
「大体、
「え、ああ、傍から分かるほど疲れてますか、僕」
「うん」
研究に限らず、バイトもしなければ食っていけない以上、生活は少なからず忙しないものになる。だから、疲れて見えるのはある程度仕方ないことではあるけれど、それでも傍から分かるほどっていうのはなかなかだ。少し、休んだ方が良いのかもしれない。
「まあ、こういう道に進んだ以上不健康は仕方のないものだと割り切るべきだよ。楽に生きたいのであれば、最初からこんな道なんて選ばない方が良い」
確かにそうなんだろうけれど、それは少しだけ哀しい響きのする言葉だったような気がした。
いつの間にかメビウスは吝嗇家でもここまでは吸わないというほどに短くなっていて、慌てて灰皿に押し付ける。もうここに居る理由はなくなった。
このまま「それじゃあ」と言って出てしまえば良いのに、どうにも話の区切りが悪いような気がして、僕はふと、聞いてみる。
「綴さんは、じゃあどうしてこんな道を選んだんですか?」
彼女は一度、煙草を深く吸いこみ、それから紫煙を吐き出した後でニヒルに笑った。
「トートロジーだよ、蓮見君。研究は、研究のために行われるんだ。それ以上でも以下でもない。そうだろう?」
さあ、そういうものなのだろうか。
僕は僕は聞いておきながら自らの答えは出せないままで、「それじゃあ」と言い喫煙室を出た。彼女のハイライトはまだ長く残っていて、もう暫くは喫煙室に留まっているだろうと、そんなことを思いながら。
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