第38話 帰り道で


「あいつ、マジで覚えてろよ」



 宮子と一緒に釣り堀居酒屋に行ってちょうど食べ終わり店を出て別れたのだが、思った以上の金額になってしまい財布がすっかり軽くなってしまった。まさか一番安い鰺でさえ千円近くするとは思わなかった。貝類などはまだ安かったが、それでもランチとして見るには少々お高め。鯛なんて四千円くらいしていたと思う。



「あいつ、マジで金足りなくなってたし」



 俺と宮子はお互いに「ヤバい、さすがに高くね?」と話し合った結果一番安い鰺を釣り調理してもらうことにした。だが調子に乗った宮子が小さな貝類をバンバンと網に入れてしまい思った以上の金額になってしまったのだ。そして最終的に……



『ソーマ、お金貸して』



 予想可能回避不可な展開になってしまったわけだ。お腹いっぱいになった宮子は幸せそうだったが、俺としては予定外の出費に泣きたい気分だった。ちなみに釣りたての鰺は鰺フライにしてもらったが、今まで食べた中で一番おいしかったです。



「とりあえず塾に行かないと」



 思った以上に長居してしまったため、少し速足で塾へと向かった。今日は午後三時から複数人の子を見ることになっており、夜の十時まで塾にいる予定だ。きっちり七時間労働をするので、気を引き締めて今朝やった復習内容を思い出す。


 そうして脳内で今日教えることを考えている内にあっという間に塾が入っている建物についてしまった。俺は備え付けられているエレベーターを昇り塾の中に入って荷物の整理をする。



「しかし、雲母がいない塾もやっぱ新鮮だな」



 今までは雲母に教えるために来ていたようなもので、同僚には『雲母担当』みたいに見られていた節があった。だがその称号も夏期講習の期間に入って徐々に消え失せつつある。というか塾長もどうして俺を雲母ばかりにあてがうのだろうか?



 ——キーンコーンカーンコーン



「って、もう時間か」



 俺は慌てて必要になるであろう参考書を棚から引っ張り出し急いでこの時間担当する子たちのところへと向かった。この時間は確か中学生二人と高校生一人を同時進行で教えることになっていたはず。中学生一人と高校生が数学、もう一人の中学生は英語を教える。



(個別指導塾だし、それぞれやる範囲が違うから大変なんだよなぁ)



 得意教科や学年、通っている学校の進度によってそれぞれ教える範囲が全く異なるのが個別指導塾の特徴だ。だからこそ俺もそのすべてに対応できるようにしていなければ話にならないのだ。俺自身の学力と集中力、さらに指導力が試されることになる。夏期講習は塾生だけの戦いではない、俺たち塾講師の戦いでもある。


「さて、気合入れて頑張るか」



 そうして俺は戦地に赴くかのように待っている生徒たちの元へと急ぎ向かうのだった。













 そうしてすっかり日も暮れ午後十時。教えていた子たちはみんな帰り、ちょうど今日開講される授業がすべて終わったところだ。俺にも休み時間があったが塾から出るのが面倒くさくて夜ご飯も食べずにこの七時間を過ごしてしまった。ちなみに頭はすっかりクラクラで、ここ最近で一番疲労が溜まっている。



「すぐ鍵かけちゃうから、忘れ物がないようにねー」



 俺たち講師に塾長がそう声を掛ける。そしてさりげなくチョコレートをみんなに差し入れしてくれる当たり、本当に気遣いができる人だ。ちなみに今日は塾長も数人の生徒に教えていた。この塾、切実に人が少ないのでは?



「それじゃ、お疲れ様でーす」



 俺はそう言って塾を後にする。これでもかなり給料が入るので俺の質素な大学生活を安定させるには必要なのだ。それにお金がないということは楓ちゃんに食費を払えなくなり、彼女の料理が食べられなくなることに直結する。とはいえ、ここ数日はそういう事情を抜きにして彼女の顔を見ていない。



「そういえば楓ちゃんは実家に帰省するって言ってたっけ」



 彼女も一人暮らしだし、高校生だからこそ定期的に顔は見せなければ心配させてしまうだろう。ちなみに俺は両親と絶縁状態にあるため、そんな連絡一切届かない。まあ、あの両親が俺のことを心配するかまず疑問だが。



「この時間ならあそこのスーパーがまだ空いてるし、値引きされた惣菜もあるかな?」



 くだらないことを考えるのをやめ、とりあえず今は晩飯の確保に意識を切り替えることにした。とはいえ昼食にかなりの金額を使ってしまったため、これから数日は可能な限り節約しなければいけない。だから近所にある深夜まで営業しているスーパーに足を運ぶことにした。



「……ギリギリ生活はできるな」



 俺は道端で財布の中身を見ながらそう呟く。次の給料日はちょうど一週間後。所持金的にもギリギリだが幸い食料は家に備蓄しているし、これなら何とか生活していけるだろう。もしヤバかったら今日のことをネタにして宮子から何か分けてもらうことにするか。



 そうして俺は塾がある駅前を経由して目的地であるスーパーに向かおうとする。だが、その途中で……



「ほらほらおねーちゃん、こんな深夜に一人っきりは危ないって」


「でも俺らとなら安心だぜ。アハハハ」


「そうそう。だからさ、一緒に遊びに行こ―って。な? な?」


「……」



 あれは大学生だろうか? 顔が真っ赤になっていることから酔っぱらっているのだと推測する。気分が良いのか、満面の笑みを浮かべながら誰かをしつこく誘っていた。そして、彼らの中にいる渦中の人物は……



「……」



 ムスッとした表情で、疲れたように虚空を見つめている結構可愛い子がいた。というかあの子、暗くてあんまり顔が見えなかったがどこかで見覚えが……って、あれ?



(いや、マジで何してんだよあいつ)



 その中心で不機嫌そうに足を組んでベンチに座っていたのは綾瀬だった。


 綾瀬とは以前のオープンキャンパスでともにスタッフとして働いてからほとんど連絡を取っていなかった。時々俺のことをからかうような絵文字を送ってくることがあったが、基本的にはそれだけ。それ以上会話が続くことはない。



(助け……る、必要はないか)



 綾瀬なら舌戦で負けることはないだろうし、最悪声を上げて助けを呼ぶことができる。駅前だしまだこの時間は人通りもある。そして何より本人が何も行動していないあたり、あの状況を脅威とも何とも思っていないのだろう。なら、危ない橋を渡る必要はない。



「さて、買い物買い物……」



 と、俺が移動を始めようとしたとき……



「「……あ」」



 バッチリと目が合った。すると綾瀬は先ほどのムスッとした表情は何処へやら、いつも大学で見るようになニコニコした表情になりあろうことか俺の元へと駆け寄ってきた。そしてそれをギョッとしながら見つめる先ほどの強面な大学生のお兄さんたち。



「やっほー彼氏ぃ。なんで夏休みに入ったのに連絡どころかまともな返信の一つもできないのかなコラ」


「いや、あんな意味不明な絵文字を送られても……って、お前何でしれっと俺の隣に立つ?」


「だって、あの手の人たちまともに相手するの面倒臭いんだもん。ああいうお酒が入ると気が大きくなる人って、絶対冨樫くんみたいな陰キャだし」


「誰が陰キャか」



 否定はできないけれども。だが今の会話を少し大きめにしていたせいか、陰キャと言われた大学生(?)のお兄さんたちが途端に俯いて肩を震わせていた。あ、本当に気が強くなっただけの陰キャか。


 すると、今度は小声で……



「そしてそういう人たちは、私みたいな美少女が彼氏持ちだと知ると途端に萎えて解散するんだよね。まあその悲壮感を今夜のオカズにすれば逆に燃えていいんじゃないかな?」


「本当に可愛そうすぎるから絶対に言うなよ?」



 まさかこいつの口からそんなワードが飛び出すとは思ってもいなかった。いや、人は疲れたら下ネタを無意識に言うと何かで聞いた覚えがある。先ほど虚空を見つめていた虚無感といい……もしかして、こいつ疲れてる?



「ほら」


「あ、本当に帰っていきやがった」



 トボトボと悲しい背中を見せながら帰っていく男子大学生たち。その途中で「なんであんな奴なんだよ」とか「結局は顔か」とか「やっぱり二次元しかないのか!?」など、そんな会話が聞こえてきたがきっと気のせいだ。うん、そうに違いない。



「それはそうと、お前こんな時間に何してんだよ」


「帰省して疲れたとこ。はぁ、何か肩凝ってきた」


「帰省って、そんな荷物持ってないし日帰りか?」


「まーね」



 そう言いながら伸びをする綾瀬。どうやら本当に疲れているようだ。先ほどから人目があることも気にせず大きな口を開けてあくびをしている。羞恥心が欠落しているのは疲れているからか、それとも元からか。ちょっと悩むところだ。



 とりあえず、こいつにこれ以上関わるとロクなことにならなさそうなので、俺は適当なタイミングでこの場を離脱して……



「そういえば、冨樫くんは今帰り?」


「ああ、バイトが終わったところだ」


「へぇ……」



 あれ、気のせいだろうか? 先ほどまで疲れが溜まっていると言っていた綾瀬が途端に面白そうなおもちゃを見つけた子供みたいな顔になった気がする。それどころかいつものニヤニヤした表情が悪魔の笑みに見え始めた。


 そんな俺の勘は間違っていなかったのだろう。綾瀬は面白そうに口を開いて



「じゃあ、冨樫くんの家に遊びに行っちゃおうかなぁ?」


「…………えぇ」



 そんなことを妙にテンション高く言い出すのだった。

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