番外編 塾の先生②


 あたしが塾に通い始めて……一か月が過ぎようとしていた。最初の体験分三回はとっくに過ぎ去っており、数学に関してはとっくに二年生の範囲が終わってしまった。冨樫先生が提示する課題を時間内に解いて丸を付けてもらう。そんなやり取りがずっと繰り返されていた。あたしがほとんど誤答しなかったため、先生が教える部分がなく若干苦笑していたが。



「まさか、こんなに早く終わるとは思ってなかった」



 予想を上回るスピードを発揮したため先生も最後の方は驚いていた。どうやら先生の現役時代はかなり苦労していたらしく、あたしのことを羨むようなことも言っていた。ちなみに先生は大学1年生らしく、歳が近いことも最近知った。



 さて、なんであたしがすぐに塾を辞めず放課後足を伸ばしているのかと言うと……



「めちゃくちゃ凄いじゃん。もっと誇ってもいいんだぞ?」


「いや、別にフツーだし……」


「そんなことはないさ。本当、天音さんは凄いよ。頑張ってるな」


「……ありがと」



 あたしが成果を残すたびに、冨樫先生は過剰と言えるくらいに褒めてくれた。思えばあたしの人生、誰かに褒めてもらったことはほとんどない。優しかった両親さえあたしのことをよく気にかけてくれて優しくしてくれたが、褒めてもらうことは数えるくらいしかなかった気がする。

きっと何か凄いことをしても「雲母ならできて当たり前」と思っているに違いない。そしてそれは学校の先生や友達でさえそう。むしろ一方的に頼って利用しようとしてくるあたり質が悪い。だが、この先生からはそんな邪推なものは一切感じられず、純粋にあたしのことを褒めてくれた。


きっと褒めて伸ばすタイプの人なのだろう。それが分かっていても、あたしは嬉しかった。まさか勉強を少ししただけでこんなに褒めてもらえるとは。いや、久しく忘れていたのだ。誰かに認めてもらうことの嬉しさが。



 そんなこともあって、もう少し通ってみたいと思い始めるあたしがいたのだ。最初は出来たばかりの塾ということで人も少なく両親ともども不安があったが、通えば通うほど居心地が良くなってきた。



「じゃ、じゃあ、次は古文を中心にやりたい」


「おお、向上心の塊だな。よし、すぐに参考書を持ってくる」



 そしてこの冨樫先生、最初は新人ということもあって大丈夫かと心配したが、生徒に寄り添う理想的な先生だったと思う。先生もハイペースで進むあたしを見て焦っていたと思うし教える身としては負担もあったと思う。だがこの人は一切そんな感情や仕草を覗かせることなくとことんあたしに付き合ってくれた。


 冨樫先生がいないときに他の先生の授業を受けたことがあるが、正直あまり良いものとは言えなかった。必ずと言っていいほど先生に負担が見え始めるのだ。いや、きっとあたしのペースについてこれている冨樫先生が異常なのだろう。



 そして気が付けば3カ月。この頃になるとあたしと冨樫先生は最初の頃より打ち解け、次第にお互いの堅苦しさが無くなってきた。塾講師としては正直ダメだと思うが、あたしはそんな先生を気に入っていた。いや、この場所を気に入っていたのだ。



「それで、雲母は夏期講習は受けるのか?」


「うーん、夏休み中はゆっくり過ごすかな。友達とも遊びに行く予定があるし」


「そうか。まあ雲母なら夏期講習がなくても余裕だろ。あ、でも遊びにかまけて学校の宿題はサボるなよ」


「わかってるって。なんなら先生も一緒に遊ぶ? 現役JKに囲まれて」


「魅力的だけど遠慮する。俺も色々と忙しいんだ」



 意地悪な発言をしてみることがあったが、先生は適当な性格に見えて割とガードが固い。必要以上に自分のプライベートを離さないのだ。まああたしとしても別にそこまで知りたいことでもないのだが。



 そうして、夏休みに入る前まであたしは塾に通い続けた。一応両親に聞いてみたがお金は心配しなくてもいいとのことだ。これなら夏休み明けに再び通うことも検討できるだろう。


 そして、夏休み前最終日。



「おっと、もう終わりか」



 あたしと先生はいつも通りハイペースで高校の範囲を予習していた。ちょうど今ずっとやっていた古文や漢文と一区切りがついたところだ。現代文はともかくこの二つは正直ニガテな範囲なので時間を書けて念入りにやった。いくら記憶力が良いからって基礎を知らなければそれも焼き付かないのだ。



「あっ、俺もこの時間で上がりか」



 そしてあたしが授業が終わり帰る準備をしていると、冨樫先生がそんなことを呟いたのが耳に入ってきた。どうやら彼もこの時間で塾を出るようだ。今までは塾を出る時間がかぶることがなかったので、ちょっと不思議な感覚だ。



「あっ、どうせなら一緒に帰る?」


「いいけど、方角は?」


「駅と反対方向」


「なら問題なしだな」



 そうしてノリで先生と一緒に帰ることになったあたし。この時はまだ先生に特別な感情を抱くことはなく、どちらかと言えば接しやすい年上のお兄さん、あるいは先輩といった印象だったと思う。


だが、この帰り道でその価値観が大きく変わる出来事があったのだ。



「雲母は将来の夢とか決まってるのか?」


「え、進路相談?」


「将来の夢がない現役大学生の、ちょっとしたリサーチだ」


「えぇ、かなし~」



 あたしたちは塾と同じように軽口を叩き合い夜道を歩いていたころ、先生がそんなことを尋ねてきたのだ。まあ将来の夢がない若者はわりとたくさんいるというし、先生に限らずあたしもその一人だ。だが人生の先輩からの質問なので柄にもなく少し真剣に考えこんでいた。




 だからだろう、曲がり角からやってくる車に気が付かなかったのは。



「っ! 危ない!」


「……え?」



 ドライバーも不注意……いや、徐行や一時停止をしていないあたり素行の悪い運転をする人だったのだろう。歩道の白線をやや越えて、アタシに向かって迫ってきていた。



「悪いけど、こっちだ!」


「ふぁっ!?」



 先生は車が止まらないと確信したのだろう。腕を掴んであたしの体を無理やり引き寄せてそのまま抱きかかえた。



(ちょ!? えっ? ええっ!?)



 テンパって声を上げることができなかったが、あたしは内心今までないほどパニック状態にあった。それもそうだろう、男の人に体を触られるのはもちろん、あまつさえ抱きしめられるだなんて。



「ちっ。あのまま走りすぎやがった」



 一方、あたしの体に当たっていたかもしれない車は何事もなかったかのようにそのまま暗い車道を走っていった。今回は歩道へのはみだしが少なかったためちょっと移動するだけで済んだが、もしガッツリ歩道へ入って来ていたら……正直想像したくもない。



「大丈夫か?」


「う、うん。ありがとう先生」


「塾の外とはいえ、講師と教え子だからな」



 確かに身の安全のなど、一定のことに関しては先生が責任を問われるかもしれない。だが、塾の外までそんなことをやってくれるとは、サービス精神にあふれた人だなと思った。いや、きっと根本から優しい人なのだろう。



「車のナンバー覚えたけど、警察に行くか?」


「うーん、面倒だからいい。きっとそのうち逮捕されそうだし」


「そうか」



 あたしがそう言うと、先生は今の話を一切やめた。きっとトラウマになるかもしれないと配慮しての事だろう。確かにあたしの記憶力がなまじ良い分、しばらくは今感じた恐怖がフラッシュバックするかもしれない。



「っと、いつまでも抱き寄せてたらセクハラか。怪我はしてないか?」


「あっ、うん。だいじょ……っ!」


「……足を捻ったか」



 一度離れ先生に問題ないと言おうとしたが、どうやら先ほどのやり取りで足を捻挫してしまったようだ。無理に歩けないことはないが、ここから家まで歩いたら症状を悪化させてしまいそうだ。



「まあ、無理やり腕を掴んで引っ張った俺の責任だな。すまない」


「いや、先生は悪くないよ! 悪いのはさっきのドライバーの人で……」


「それでもだ。とりあえず……」



 そうして先生は周りを見渡す。すると、近くに車侵入防止用の安全用の柵を見つけたらしい。きっとあたしをあそこまで運んで一度柵の上に座らせたいと考えているのだろう。だが、あそこまで行くのがちょっと面倒……と、思っていたのだが。



「悪いけど、我慢しろよ」


「って、ちょっと先生!?」



 先生は屈んだかと思うとあたしの膝裏に手を回しそのまま太ももを持ち上げ逆の手で背中を支えた。



(こっ、これってお姫様抱っこ!?)



 まさか現実でこんなシチュエーションになるとは思ってもいなかった。だが先生は何事もないようにあたしを柵まで運びそのまま腰を下ろさせた。



「俺のハンカチで悪いけど、捻挫の部分に結んで圧迫する。気休めだけど、少しはマシになるはずだ」


「は、はい」


「いや、なんで敬語なんだよ」



 先生はそう笑いながらあたしの靴を脱がせて足を膝に置き、綺麗なハンカチを丁寧に強く結びつける。だがあたしはそんなことがどうでもよくなるくらい今の現状にドギマギしていた。



(ううっ、ドキドキして先生の顔直視できないよぉ)



 あたし、天音雲母は男女問わず今まで比較的フラットに接してきた。だが同級生の子供っぽい男子からは間違ってもこんな扱いを受けたことはない。それどころか、異性との交遊もほとんどないのだ。一緒に遊びに行くことはあったが、それだけ。誰かと付き合ったこともなければ異性を好きになったこともない恋愛初心者なのだ。



(いや、でもまさか……ねぇ)



 あたしだってそんなに軽くはない。まさか一度こんな風に体を触られたり守られたりしたからって、こうも簡単に先生のことを好きになったりは……



「可愛い靴下じゃん」


「ちょ、あんま見ないでよぉ!」


「ハハッ、悪い悪い」



 やっぱりこの人サイテー。そう思いつつ、どこか安心している自分がいる。それと同時に、子供っぽい靴下を履いてきたことに後悔する自分がいた。この気持ちは……いや、そんなわけ。


 そんな中、綺麗な月明りが先生の顔を照らして……



「とりあえず、ハンカチは洗って夏休み明けにでも返してくれ。立てるか?」


「……はい」


「いや、だからなんで今さら敬語?」



 なんで自分は、今先生のことを魅入ってしまっていたのだろう。なぜ、委縮していつもとは打って変わり丁寧な言葉遣いになったのだろう。



 今にして思えば、ここがあたしのターニングポイントだった。いや、そういう意味では塾に通った日からかもしれない。



「送って行こうか?」


「いや、いいよ。タクシー呼ぶから」



 そうしてあたふたしながらタクシーを呼ぶ。一刻も早くこの場を離れたかった。今の自分の顔を、この人に見られたくはなかったのだ。



 そうして数分後、あたしが呼んだタクシーはあっさりと到着する。そしてあたしは先生に別れとお礼を告げてそのままタクシーに……



(……あれ?)



 やっぱり今日のあたしは変だ。先ほどまではすぐにこの場から消えたいと思っていたのに、どうして今になって先生と離れたくないと思ってしまっているのだろう。



「それじゃ、お休み雲母」


「うん、お休み」



 だが乗り込んでしまった後にはすべてが遅く、そのまま先生と別れを告げてタクシーが走り出した。



(……違うもん)



 先ほどから自分の心に怒っている現象。それについて、よくその手の漫画を読む自分からしたら一つ心当たりがある。だが、それを素直に認めたくない。認めたら、次からどんな顔をして先生に会えばいいのかわからないからだ。



(絶対に、恋じゃないもん!)





 そうしてちょっと長い高校生の夏休み。その長い間先生に会わなかったせいで寂しさが爆発し、結局自分が先生に恋をしたのだと気づくのにそう時間はかからなかった。気が付けば塾長に「冨樫先生には積極的に自分の担当をしてもらいたい」と直談判しに行くくらいである。もちろん、本人にはオフレコで。


 先生のことは置いておいても、あの塾が居心地のいいことに変わりない。結局あたしは別に必要もないのに自分が本当に恋をしているのかを確かめるため、その後も塾に通い続けるのだった。




 けれど、うん。今になって一つ思うことがある。



 あたしチョロすぎぃ!










——あとがき——


次回から本編に戻ります。

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