6−6

 引き出物の荷物が重たいとボヤいていた数分前の自分が呆れている。こんな真夏に、重い荷物を提げて向かった先はやはりあそこだ。


 またここに来てしまったと、かつてアルバイトをしていた青陽堂書店本店のビルを見上げた莉子の口から苦笑が漏れた。

 12年も経てば当然だが書店のブランドロゴや店内の何もかもが、莉子が働いていたあの頃とは様変わりしている。


(前に帰省した時はロゴの書体は昔と同じだったのに。シュッとしてカッコよくなっちゃって)


 昔よりもスタイリッシュになったロゴ入りのエプロンをつけた男性店員の顔をさりげなく見やる。あ……若い、と思った時点でその店員からそっと視線をそらした。


(誕生日前だから47歳か……。ダンディなオジサマになってそうだよね)


 3階の文具フロアを見回しても知った顔はひとりもいない。あの頃はいた主任も部長も、出世の異動や定年退職を迎えているはずだ。

 親しくしていた契約社員の秋元結梨も、最後まで手厳しい印象しかなかったパートの荒木史香も、鬱陶しいけれど陽気な井上康介も、当たり前にここには居なかった。


 商品棚の配置もレジの位置すらも変わっていた。建物の構造は昔と変わらないのに、まったく別の店舗に思えてくる。


 文具フロアに竹倉純らしき男性の姿は見かけなかった。漏れた溜息は安堵と落胆のどちらだろう?


 どこかで会えるんじゃないかって、そわそわして、でも見慣れた街中で彼の姿を探しても溜息ばかりが漏れていく。

 人生は恋愛ドラマのように都合よくはいかないものだ。


 1階の文芸書籍フロアで恋愛小説の文庫本を1冊購入して店を出た莉子は、比較的人通りの少ない通用口前の歩道で立ち止まった。何もかもが異なる中で、青陽堂書店の従業員専用の通用口の位置だけは12年前と同じだった。


 地面に下ろしていた引き出物の紙袋を持ち上げた時、通用口から男が出てきた。男と莉子の目が合ったその一瞬、ふたりの時間だけが12年前に巻き戻って静止した。


「……莉子?」


 懐かしい声で呼ばれる自分の名前。11年分の時を刻んでもその人が誰か、莉子にとっては1+1よりも簡単な問題だった。


 呼吸をするのを、忘れていた。止まっていた時間がようやく動き出し、彼女は震える声でに言葉を向けた。


「びっくりした……。まさか日曜にいるとは思わなくて」

「明日休みにする代わりの休日出勤。もう仕事終わったから帰るんだ」

「そっか。まだここで働いていたんだね」


 竹倉純の穏やかな微笑は少しも変わらない。駅前の再開発が進んでどれだけ街並みが変化しても、アルバイト先があの頃の面影をすっかり失くしても、竹倉純は何ひとつ変わっていなかった。


「無駄に年取って出世だけしてね」

「出世したの?」

「一応、4階フロアの部長」

「凄いっ! あれ? でも4階? 文具フロアの部長じゃないの?」


 私服姿の若い男性従業員が通用口を出てきたことで、純と莉子の会話は途切れた。純に挨拶をして去る彼がじろりと莉子を一瞥する。


(職場の前で立ち話は純さんに迷惑かけちゃうよね。さっきの人に変な誤解されたかな?)


 どちらともなく、そこから一歩を踏み出した莉子達は駅前の大通りを歩きながら会話を再開した。


「社員は人事異動があるから、他店にも他部署にも行かされるよ。莉子はまだ東京?」

「東京に住んでるよ。表参道のお店でネイリストしてる」

「表参道か。そんな都会で働いてるなんて凄いな。夢を叶えたんだね」


 純に褒められると無性に照れ臭い。ふたりの歩む先は真っ直ぐ駅に向かっているが、純はどういうつもりでいる?


「ねぇ、今から時間ある? 少し話がしたい」

「俺はいいけど……」

「明日も休みだから帰りが遅くなっても平気なの。お酒でも飲みながらお話しようよ。ダメ?」

「莉子のおねだりに俺が弱いってわかっていてやってるだろ?」


 笑って誘いを承諾する純を見て莉子は密かに安堵した。

 12年前、青陽堂を訪れた元カノの由貴を純は冷たくあしらっていた。今は由貴と同じ〈元カノ〉の立場となった莉子は、自分の誘いを純が断る可能性も多少は視野に入れていた。


 だけど純は莉子を拒絶しなかった。その事実に身勝手だと思いつつ嬉しさを感じている。


 普段は酒を飲まないが、下戸げこでもない純と共に駅前の居酒屋に入った。上京する前はこの場所は居酒屋ではなかったと記憶している。確か、ここはお好み焼き屋だった。


 ビールで乾杯したふたりは離れていた間の11年の歳月を埋めるように、互いの話をポツリポツリと重ねた。


 莉子は現在、東京北青山にあるネイルサロンで店長を務めている。伯母の美容会社が出したネイルサロンの2号店だ。

 そんな洒落た街で店長として働く莉子を純は凄い凄いと褒めそやした。


 純は11年の間に、市内や県内の支店を回って店長の任に就いたらしい。その後は本店の事務所に数年居て、今は本店4階フロアの部長。

 着実に出世の階段を上がる彼の左手薬指に指輪の存在はなく、またしても莉子は安堵する。


(今頃になって由貴さんに言われた言葉の意味がわかるのもおかしな話だよね。純さんが結婚していたら私も許せなかったかも)


 幸せになって欲しいのに自分以外の誰かとは幸せになって欲しくない。純への感情には、そんな複雑な想いが含まれていた。

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