藤田桜

1


「メグミ、私だよ。入ってもいいかな」

 もう何度繰り返したか分からない定型句。十数秒ほどの沈黙の後に「いいよ」と返ってくる。それが私たちのマナーだった。その間、中でメグミが何をしているのか私は知らない。でも、きっと詮索されるのは嫌だろうから。彼女の意志はなるべく尊重してあげたかった。だから私は何も言わない。

 真鍮のドアノブはひんやりとしていて冷たい。僅かに軋む音を立てながら、それは開いた。何から何まで真っ白で揃えられた部屋は、いつ見ても無菌の病室を思わせる。もちろんメグミには家具屋さんに行って自分の好きなインテリアを見繕うことなんてできないから、全て彼女のお母さんが選んだものだ。

「会いたかった」

 私はメグミを抱き締めた。前より少し痩せている。彼女はどうしても毎晩、食事の後に吐いてしまうのだと語った。おばさんには頑固なところがある。娘が何度食べきれないと訴えても、お腹が減って「飢える」といけないからの一点張りで、大盛りの夜ご飯を用意するのだとか。

 メグミからは微かに饐えた匂いがした。綺麗好きな彼女が何度お風呂に入っても消えない、ということは体の内側から出る匂いなのだろう。彼女の宿痾のことを頭に思い浮かべる。小さな背中を抱き締める腕が、思わずこわばった。

「トモちゃんは最近、学校どうなの?」

 高くて、臆病な幼子のような声が耳朶を撫でた。こんなに短いセンテンスを喋るだけでも息が切れて、苦しそうにしているのが分かる。

「楽しかったよ。今日は音楽の授業があってね――」

 メグミはいつものように私の歌を聞きたがった。私はしばらく気恥ずかしがって、躊躇う。「私、トモちゃんの声かっこよくて好きだから」という彼女の台詞を待って通学鞄から楽譜を取り出し、「そっか。それなら歌おうかな」とくちずさみ始める。音楽は別に好きじゃないけれど、メグミが褒めてくれるのが嬉しかったから。

 井上陽水の『少年時代』という曲だ。メグミもよくテレビで聞いていた曲だからか、いつもにも増して目を輝かせて聞いている。歌が終わると「最後のサビって、少しだけメロディーが変わるんだね。私うるっと来ちゃった」なんて嬉しそうにしているのが愛おしくて、私は彼女の頬に耳をこすりつけた。

「くすぐったいよ」

 そう言って笑う彼女に私は尋ねる。

「メグミはどう? 今日も小説書いてたの?」

 今も彼女が執筆を続けていることは、私しか知らない。というのは、以前はメグミの両親も「娘のしたいことを応援するのは当たり前でしょ?」と原稿用紙を彼女に買い与えたりしていたのだが、一度彼らがメグミの書いたものを勝手に読んでしまってからは「もう飽きちゃったの」と説明して、隠していたから。

「今日は少しだけ進んだよ。二百文字」

 傍から見ていても遅筆だと分かる速度だった。けれど、一日のほとんどを痛みに耐えて過ごすメグミにはそれだけでも十分な成果だったし、別に何かの新人賞に出そうという訳でもないらしいから、それでいいのだと思う。

 私が昨日渡した、片面印刷のプリントの裏にそれは書かれていた。メグミの「読む?」という言葉に、私は「ううん」と答える。読んで、彼女に心を閉ざされてしまうのが怖かった。許可を得ているんだからとかそういう理屈は分かっているし、彼女がどんな物語を書いているのかにも興味があったけれど「読まない理由」ばかり探して尻込みしてしまう。

 彼女の両親のようにはなりたくなかった。「二人とも、悪気はないんだけどね」と愚痴るメグミの表情からは、何一つ愛想が感じられなくて、もし自分もあんな瞳で見られることがあれば、それが私たちの友情の終わりになるだろう、と。そんな気がしたのを覚えている。

「メグミ、」

「なあに? トモちゃん」

 のんびりした様子の彼女をもう一度抱き締めて「私がいるからね」と囁く。自分でも、ヤな女だなと思った。いわゆる洗脳やマインドコントロールと何が違うのだろう。ひとりぼっちのメグミが私に依存するように誘導し、まやかしの愛情を刷り込んでいく。こんなことをする度に、不安は増していくのだ。

「メグミは私のこと、好き?」

 悪戯をする子供のように笑って「ううん」と首を横に振る彼女の次の台詞は分かっていた。だから私はできるかぎりの悄然とした演技をしてみせる。すると、ふわりと柔らかな体温が背中を包んだ。骨ばった、女の子らしくない指が夏服のミシン目を握って「大好きだよ」と言ってくれるのが嬉しくて。

「私も」

 幾度も繰り返したやり取りを今日も繰り返す。

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