第10話 求める愛は


 『婚姻統制法』によれば、妊娠できない女性は原則として結婚することができない。また、子どもを二人以上もうけてから離婚して独身になった男性も、基本的に結婚することはできない。この国では、『結婚』というものを女性が効率よく出産するための枠組みだと考えているからだ。


 ただし、いくつか例外がある。

 一つは『自由恋愛』の権利を持つ女性が男性に求婚した場合だ。この場合は、男性が既婚者だろうと独身者だろうと高齢だろうと、男性が承諾さえすれば結婚することができる。

 もう一つは、男女ともに貴族や王族の場合だ。この場合も、無条件に婚姻が許可される。


 ユーベルヴェーク公爵は既に二人の子をもうけているので結婚の義務はないし、自分から女性に求婚することは基本的にできない。ただし、貴族の家から新たな妻を迎えるのなら話は別だ。

 ティアナも妊娠することができない身体ではあるが、貴族同士の婚姻であれば結婚が許される。だからこそ、婚約破棄されたときに伯爵は必死になって新たな縁談を探し回ったのだ。




「だからね、公爵様とお父様が同意されれば、二人は結婚できるのよね?」


 二番目の姉が声を低めて囁けば、一番目の兄が眉をしかめた。


「それでいいなら、ティアナの縁談はもっと早くにまとまっていたさ」


 さらに二番目の兄も難しい顔をした。


「お父様は、ティアナには初婚で子どものいない男と結婚してもらいたかったんだ。それなら、養子を迎えて自分の家庭をもつことができるだろう?」

「それは、そうね」

「子持ちの独身男でいいなら、相手はいっぱいいたと思うぞ?」


 兄たちの言う通りだった。ティアナの両親の結婚観は、この国では少しばかり特殊なのだ。二人はティアナたちきょうだいの『幸せな結婚』を望んでいる。その甲斐あって、兄姉たちは本当に幸せな家庭を築いている。どの家庭も子だくさんで、もちろん離婚もしていない。


「ティアナは、どうなんだ?」


 三番目の兄が眉を下げてティアナの顔を覗き込んだ。他の兄姉たちも同じような顔でティアナを見ている。皆、ティアナのことを心配しているのだ。そして、彼女の意思を尊重しようとしてくれている。


「……私は、今のままでも十分なの」

「今のまま?」

「乳母の仕事は、本当にやりがいがあって……」


 大きなケーキが運ばれてきて、子どもたちから歓声が上がった。これから、主催側である双子の手によって切り分けて、お客様に提供することになっている。


「お二人が大きくなられたら、また次の乳母の口を探すわ。そうやって職業婦人として生きていくの。……悪くないと思わない?」


 ティアナは今、心からそう思っている。この仕事に確かな手応えを感じているし、周囲にも認められている。それは、誰かの妻になることや子どもを産み育てることと同等の価値があると。


「そうよね。結婚したらしたで、苦労だってあるもの」

「ずっと独り身ってことは、自由にどこへでも行けるのよね」

「その生き方って、ちょっと羨ましいわ」


 姉たちがうっとりと言うので、ティアナは嬉しくなった。人より優れた人物になりたいとは思わないが、人に羨まれる生き方をするというのは気分の悪いものではない。


「ティアナ!」

「ケーキ食べようよ!」


 双子たちがティアナに駆け寄ってきた。


「イチゴ入ってる?」

「さあ、どうでしょう?」

「切り分けるの、ティアナも手伝ってくれる?」

「もちろんです」

「早く!」

「いこ!」


 二人に手を引かれて、ティアナは改めて自分がいかに幸せであるかを実感した。


(結婚が全てじゃない……)


 婚約破棄されて泣きじゃくっていた頃の自分に、そう言ってあげたいと思った。


(寂しくないわけじゃないけど……)


 今のままでは、自分の家庭を築くことはできない。家族がいなければ、老後は一人寂しく暮らすことになるし、最期の時は一人で迎えることになるだろう。


(それでも。私は、今のままでいいわ)


 心の片隅に小さな綻びがあるとしても、その痛みと共に生きていくと決めたのだ。


 ところが、その小さな綻びに手を差し伸べようとする人がいた。他でもない、ユーベルヴェーク公爵その人だった。



 * * *



 その夜会の翌日からも、公爵はせっせと子供部屋に通ってきた。子どもたちは『ティアナを取られるのでは』と彼を警戒した時期もあったが、それはほんの短期間のことだった。すぐに公爵と一緒になってティアナを甘やかすようになった。さらには、ティアナと公爵が二人きりになるように画策するようになり、ティアナは頭を抱えることになる。


『私は乳母です! 仕事の邪魔はおやめください!』


 と言えたなら、どんなに楽だっただろうか。だが、ティアナには言えなかった。




 そんなある日のこと。


「……旦那様」

「なんだ」


 ティアナは、自分の隣に腰掛ける美貌の男性が首をかしげる様にため息を吐いた。子どもたちは家庭教師の授業中だ。昆虫採集のために庭に出かけたので、ティアナは一息つこうと温室のソファに腰を落ち着けたところだった。


 そこへ公爵がやって来て、あろうことかティアナの隣に腰掛けたのだ。


「なぜ、そこに座られるのですか?」

「君の隣に座りたいと思ったからだ」

「……主人と乳母の、適切な距離感とは思えません」

「そうだな」


 相変わらず無表情のまま、公爵が頷く。そして、使用人たちに向かって手を振った。温室から出ていけと言っているのだ。彼らは迷う素振りも見せずにさっと退室していった。

 温室に、ティアナと公爵の二人きりになる。


「いつまで気づかない振りをするつもりだ?」

「……なんのことでしょうか?」


 公爵が何を言いたいのか、それはティアナにも分かっている。それでも、気付かない振りを続けるしかないのだ。


「子どもたちも気づいている」


 『お父様、ティアナのことが好きになったんだよ』と言ったのは、ジークハルトだったかアルノルトだったか。ティアナは、ぎゅっと眉を寄せて無言を貫いた。


「……私は子どもたちではなく、君に会いに来ているんだ」


 はっきりと言われたのは、初めてだった。一瞬たじろいだティアナだったが、すぐに首を横に振る。


「いいえ。お子様たちの成長を見守るために、子供部屋に通っていらっしゃるのです」

「違う」


 言い切った公爵が、今度はティアナの手を取った。あまりにも優しい手付きで指を撫でられて、ティアナの頬にカッと熱が集まる。


「一人でいると、君に会いたくてたまらなくなるんだ」


 思わずティアナはその手を振り払って立ち上がった。このまま流されることだけは、絶対にあってはならない。


「ティアナ」


 温室の奥に逃げたティアナに公爵が追いすがる。すぐに追いつかれて手を引かれて、その懐に抱き込まれてしまった。


「おやめください!」

「……嫌なのか?」


 問われても、ティアナには返事のしようがなかった。なぜなら、


(……嫌じゃ、ない)


 決して、嫌ではないのだ。

 だが、彼女にはそれを口にすることができない。口に出してしまえば、何もかもが壊れてしまうような気がして。


「私は君に何も無理強いしない。ただ、少しだけ考えてほしい」


 この段になって初めて、ティアナは公爵の手が僅かに震えていることに気づいた。


「君にだけは……私を、父親ではなく一人の男として見てもらいたい」


 喉から絞り出すような声だった。いつも無表情で無感動で、何事にも動じない公爵のこんな姿を見るのは初めてだった。


「どうして、ですか?」


 思わず問いかけたティアナに、公爵が深く息を吐く。言葉を選んでいるらしい。



「……母親の愛を、求めているのではありませんか?」



 先に言ったのは、ティアナだった。


「失礼を承知で申し上げますが、公爵様はお母様に愛された記憶がない。だから、私に母親としての愛情を求めているのではありませんか?」


 公爵の両親は既に離婚している。それぞれが新しい配偶者を迎え、遠くで幸せに暮らしているらしい。彼が10歳になるよりも前からだ。そもそも、彼には両親と幸せに暮らした経験すらないのだ。


「それは……」

「旦那様のそれは、勘違いです」


 はっきりと言い切ったティアナが公爵の腕を振り払う。そして、俯いたまま膝を折った。


「失礼いたします」


 一人取り残された公爵の表情を見てしまわないように、ティアナはくるりと踵を返して温室を出た。





 人気のない廊下を足早に歩きながら、ティアナは胸の高鳴りを抑えようと必死になった。腕や肩に触れた大きな掌の感触を、ティアナの頬を包み込んだ胸の温もりを、忘れなければならない。


(私は、乳母として生きていくと決めたのよ!)


 この心地よい甘さに溺れてはいけないのだ。


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