68話:無風のひとりごと<消えてしまった主>




「皇太子殿下、本日の予定をお伝えします。これより聖君せいくんと皇后様の宮殿へ朝のご挨拶と同時に朝餉を囲みます。その後、軍の大将軍との会談、昼より北側辺境地域の視察と兵士たちへの激励、さらに――――」



 聖君からの冊封を受け皇太子になってから、毎日秒刻みの予定が組まれるようになった。しかも公務が終われば、そのまま子の刻まで国の長になるための教えを学ぶ座学があり、眠るのはいつも丑の刻近くになる。休日なんて皆無と言っていい。

 だが、これもすべて自分が受け入れたこと。どれだけ疲労を覚えようが文句を言える立場ではない。

 

 

 ただ、その代わりに自分は世界で一番大切な方を迎えることが許された。まだ正式な返事はいただいていないが、蒼翠そうすい様が頷いて下さるその日まで絶え間ない愛を注ぎ続けるつもりだ。

 激務ともいえる一日の、ほんのわずかな隙間時間だけ会いに行ける最愛の人。皇太子の正妻になる者のために用意されたという宮殿を訪ねると、いつも笑顔を浮かべて迎え入れてくれた。



「おかえり無風。公務お疲れ様」

「お前がここでどんなことしてるのか、聞かせてくれないか?」

「今日は俺が茶を淹れてみたんだが、茶菓子は……焦がしたからまた今度な」

「忙しいなら、わざわざ寄らなくてもいいから。今は休息を優先しろ。言うこと聞かないなら、元主人命令発動するぞ」



 邪界じゃかいとは正反対の環境に突然置かれ、戸惑っていないはずがないのに蒼翠様は毎度、こうして気遣いの言葉をかけてくれる。その度に胸の奥に灯る熱が煽られ、愛おしさが抑えきれなくなりそうで少々困るのだが、蒼翠様の御覚悟が固まるまで待つと決めたのだから我慢をしなければいけない。

 

 ただ、それでも十分に幸せな毎日だった。蒼翠様に笑いかけて貰えるし、以前よりも近くに感じられるようになった。その手に、頬に、触れることができるようになった。これほどまでの幸福は他にない。

 だからなのかもしれない。

 自分は蒼翠様の優しさに甘えすぎて、幸せに浸りすぎて、絶対に見逃してはいけない変化に気づくことができなかったのは。

 

  

 

 

「皇太子殿下! 皇太子妃様がっ!」



 蒼翠様が姿を消したのは、聖界へ来て十日目のことだった。報告を聞いてすぐに慈心宮じしんきゅうへと向かったが、宮殿の侍女たちから「庭を散策していた様子は確認したのだが、気づいた時にはもうお姿がなかった」と聞かされ、目の前が真っ暗になった。

 

 なぜ、どうして、どこに。

 もしや何か事件に巻き込まれてしまったのか。

 

 

 心臓が嫌な音を立てて鳴り響く。

 居てもたってもいられず聖界中を走り回った。皇太子付きの臣下や女官は慌てて止めてきたが、今は職務や威厳よりも蒼翠様のほうが優先だと振り切った。

 

 

 そうして掴んだ情報に、愕然とすることになる。

 蒼翠様はご自分の意志で、王宮から出て行ってしまったようだ。

 


「蒼、翠様……」


 蒼翠様がどんな理由で出て行ってしまったのか、どこに行ってしまったのか、思考を巡らせても皆目見当がつかない。

 邪界にいた頃なら、きっとすぐにでも居場所を突き止めることができただろう。ずっと一緒に暮らしてきた蒼翠様のことなら、どんなことだって分かる。あの方は誰よりも優しく、いつだって人のことばかりを優先する。そして感情が豊かな方でもあるので、苦悩を抱えていたとしてもすぐに読み取れた。 

 それなのに、今回はそれがまったく感じ取れなかった。

 

 

 最後に顔を合わせた夜はいつもどおりのお美しい笑顔を向けてくれたし、次に時間が取れた時は二人で美しい雲海を鑑賞しに行こうと約束もしてくれた。

 それなのにどうして。

 

 

 ――私のことが疎ましくなったのですか?

 ――やはり白龍族の私は受け入れられないのですか?



 蒼翠様が出て行ってしまわれた理由を想像するだけで、足元から崩れ落ちそうになる。

 突然、主人を失ってしまった宮殿。侍女たちを全員下がらせ、一人応接の間の長椅子に座り蒼翠様の痕跡を探してみるが、あまりにも物が少なすぎて視線を一巡りさせただけで何が置いてあるのかすべて把握できてしまった。

 侍女たちに何も求めなかったのは遠慮なのか、それとも初めから出て行くことを想定していたからか。

 考えるだけで気分がどんどん憂鬱になった。



 立ち上がり、続けて寝所の間へと立ち入る。そこも応接の間と同様、生活の残り香すら感じられない。

 東宮殿に迎えるまでの臨時で付けた侍女によると、蒼翠様は身の回りの世話も自分自身でなさっていたらしい。ということはやはり、とため息を吐こうとした時、ふと寝台の枕の横に飾り箱が置かれていることに気づいた。

 蒼翠様の好きな桃の絵がささやかに描かれた、小さな小さな箱だった。

 

『本当は桜がいいんだけど、この世界にはないだろうなぁ』


 

 見たことも聞いたこともない花の名前だったが、桃の花が桜に似ているとのことで好きだと昔言っていた。

 これは確実に蒼翠様のものだ。

 ようやく見つけたわずかな望みに、急いで腕を伸ばし飾り箱を手に取る。そして箱の蓋を開けてみると。

 


「っ!」



 中には香が入っていた。

 白檀に甘松かんじょつが藿香かっこう

 これは紛れもなく、蒼翠様が私のために調香して下さった香りだ。

 

 

「蒼翠様……っ… …」

 

 

 蓋を開けた瞬間に鼻をくすぐった穏やかな香りに、堪えていた想いが溢れ出す。

 

 

 蒼翠様が愛おしい。

 蒼翠様に会いたい。

 蒼翠様を抱きしめたい。

 もう二度と、蒼翠様と離れたくない。

 

 

「だめだ、あの方を諦める……いや、手放すことなんてできない」

  

 

 胸の奥から矢を射った勢いで飛び出してきた強すぎる感情は、もはや愛なんて生易しいものではなかった。

 これは執着だ。

 


「探しに行こう、蒼翠様を」

 


 決断はすぐに下った。

 蒼翠様がなにを考え、姿を消してしまったのかは直接会ってお聞きすればいい。

 もし、聖界に馴染めないと仰るのであれば連れて逃げよう。

 邪界に帰りたいのであれば、どんな手を使ってでも戻ってみせる。

 そう、どんな理由であってもすべて叶えて差し上げればいいだけのこと。



「待っていてください、必ず貴方様の下に参ります」



 もう悩む必要なんてない。決意とともに歩き出した時にはもう、心に巣食っていた憂愁はすっかりと晴れ渡っていた。

 


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