65話:新たな生活
「皇太子妃様、朝でございます」
「あ……ああ」
寝所の外からかけられた言葉にぎこちなく返答すると、湯の入った桶を抱えた女官が静かに入室してきた。
きっちりと整えられた髪に服装に、喜怒哀楽が読みづらい感情のない表情。可愛らしいというよりも美人という部類に入るであろうすっきりとした顔立ちの彼女は、常に無駄が一切ない動きで
――いや、皇太子“妃”って。
なんの躊躇いもなく蒼翠を妃と呼ぶ彼女の肝の太さに驚きながらも、逆に感心すらしてしまう。
「お顔と手を拭かせていただきます」
桶の湯で濡らした手巾を固く絞り、それを手にして蒼翠の手を取ろうとする。が、蒼翠は首を横に振りそれを断った。
「いや大丈夫、自分でできるから」
「さようですか、かしこまりました」
本来、朝に主人の身体を清めるのは仕える女官の役目だが、これまでずっと無風に世話をして貰っていた蒼翠はなかなかに女性の手での世話が慣れなくて、ここに来てからずっとこうして断り続けていた。
「我儘を言ってすまない。ありがとう」
「いえ」
抑揚のない返答が戻ってくる。
蒼翠は困ったように笑い、女官に朝餉の支度に向かうよう頼んだ。
――きっとハズレくじ引かされた、って感じなんだろうな。
しかし無風はここを仮の宮殿だと蒼翠に言った。
「準備が整い次第、蒼翠様を
どうやら皇太子になっても蒼翠の世話は自分でするつもりらしい。しかし、それが許されるかといえば、多分許されることはないだろう。
東宮殿の主が皇太子のみだと決められているのは、尊き後継者の命を守るため。そのために厳重な警備体制を敷いているのに、別の主まで移り住んでしまえばそれらがすべて意味のないものになってしまう。だから蒼翠としては無風のためにも東宮殿に行かないつもりでいた。
――それに、そもそも
無風は蒼翠を婚姻相手として扱っているし、周囲も皇太子命令に従っている。ゆえに蒼翠はこうして女官から皇太子妃扱いされているのだが、やはり皆が皆、受け入れているわけがない。
今はまだ静観を続けている聖君や皇后も、いつか我慢できなくなる日がくるだろうし、重臣たちの反対に抗えなくなることだってある。それに。
無風が心変わりすることだってありえる。
蒼翠のことはやはり育ての主として、一人の師匠として大切なのであって恋愛感情を向ける相手ではなかったと気づいてしまったら、その瞬間から自分の居場所はなくなる。
その時、自分はどうするべきか。
考えながら蒼翠は程よい温もりの濡れ手巾を、顔に充てる。
一人きりの部屋は、侘しく静まり返っていた。
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蒼翠は朝餉の後、宮殿の庭を一人散策していた。
「……はぁ」
勝手にため息が溢れる。
ここへきてから何もやることがない。
「暇だ……」
無論、自分が罪人で帰る場所もない厄介な居候だと自覚しているので、文句なんて死んでも言うつもりはないが。
――俺って、かなり無趣味な人間だったんだな。
代わって無風のほうはといえば、ほぼ毎日何かしらの理由で飛び回っている。前皇太子だった兄が任されていた仕事に、聖界の重臣たちとの会合、その合間を縫ってこれまで学んでこなかった王になるための教えを学んでいるらしい。そのせいか蒼翠のもとに顔を出せるのは寝る前のわずかな時間のみで、日によってはそれすらもない時がある。
これもまた仕方のない話なので、もっと会いたいなんて我儘を言うつもりはないが。
「さぁ、今日はなにをしようか……」
目の前に広がるのは、東宮殿に負けないほど美しく整えられた庭園。しかしこれも十日も見続ければ飽きてしまった。
「散歩にでも行こうかな」
そろそろ別の視覚的刺激が欲しい。微妙な立場の人間であるゆえ、大人しくしていたほうがいいということは重々承知しているのだが、ここにいると中国ドラマオタクの血が騒いでしまう。
ドラマで無風が
誰の助けも借りず、一人でこっそりとなら許されないだろうか。
――俺なんて不在にしてたほうが皆楽だろうしな。
この宮殿の人間たちは、あまり蒼翠の行動を気にかけない。興味がないのか必要以上に関わりたくないのか、それは知らないが自分がいないことで仕事が捗るならそのほうがいい。
ということで、そうとなれば善は急げである。
蒼翠は自身の好奇心を満たすべく、足早に裏門へと向かった。
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