58話:牢獄



 ゆるゆると浮上した意識が最初に捉えたのは、湿り気を帯びたかびと枯れた野草の臭いだった。

 ここは、どこだ。

 どこかの部屋の中だということは分かるが、記憶にはまったくない場所だ。

 まだ意識を落としたままでいたいと訴える重たい瞼に鞭を打って開き、蒼翠そうすいは眼球を動かせる範囲だけ見回す。

 暗い。それが一番に出た印象だった。部屋の三方は墨で塗ったかのような真っ黒な壁に覆われ、外と繋がっているであろう一面には頑丈なそうな鉄格子が見える。室内の灯は東西の壁に燭台が一つずつあるだけで、この広さだけが取り柄の場所を照らすには不十分だった。



 空気が全体的に重く淀んでいるのは、換気口が手も届かないほど高い位置にある小さな窓しかないせいか。ほどなくして周囲の明るさに目が慣れたのか、黒以外の色が少しずつ見えてくると床一面に藁が敷き詰められていることが分かって、蒼翠はようやく自分の置かれた状況を把握した。

 

 

「ここは牢……?」


 邪界じゃかいの牢は重牢と呼ばれ、格子には術で壊せないよう特殊な結界が施されていると聞いた。噂によれば邪君じゃくんですら破れないとされている。が、どうして自分はこんなところにいるのだ。場所は把握できても経緯が分からず、蒼翠は訝しげな表情のまま首だけ起こして口を開いた。


 

「誰か……いないのか?」



 声をかけるが返事は戻ってこない。ということは牢番が立つ必要もないほど奥の牢なのかもしれない。



「どうなってるんだ……」

「――まったくお前さんときたら、とんだ隠し球を持っていたものじゃな」



 水滴が落ちる音すら響き渡る静寂の中でやにわに聞こえた声に、蒼翠は両目を見開く。だが、今回はさほど驚きはしなかった。

 こんな場所に難なく入って来られる強者は、一人しかいない。

 

「仙人……」

 

 蒼翠は背中全体に広がる激痛に耐えながら半身を起こし、鉄格子の外にいる仙人に拱手する。

 

 

「お見苦しい形の挨拶ですみません」

「長い付き合いじゃ、そんなこと気にせんでいい」

「ありがとうございます。……それと、隠し球って?」

「無風のことじゃよ。まさかあやつが聖界の皇子だとはな」

「っ、どうして仙人がそれをっ? ……っ! そうだ、無風は? あいつはちゃんと逃げられましたかっ?」


 激痛を堪えながら前に乗り出す。


「落ち着け。それを含めなぜお前さんがこんなところに入れられたか、説明に来たんじゃ。……が、ワシの力をもってしても、この牢は破れそうになさそうじゃ。それだけは勘弁せぇ……」



 どうやら蒼翠が意識を失っている間に何度か試してみたらしい。

 

 

「いえ、ここまで足を運んで下さっただけでも俺には十分ありがたいです」



 きっと、ここに来るまでだって大変だったはず。それを考えれば文句なんて出るはずがなかった。



「それで、一体なにがあったんですか?」

「うむ。無風じゃがな、あの時お前さんが斬られた後、倒れたお前さんを見て酷く取り乱し、感情を荒らげながら突然とてつもない力を解放させたんじゃ」



 仙人曰く、あれは解放というよりも暴走に近かったそうだ。

 そうして倒れた蒼翠を抱き締めながら獅子のごとく咆吼を上げた無風は、たちまち全身から眩い光を放ち、それは間もなく集いて龍のような形となった。それはそれは美しい光景だったそうで、この世界の数々の絶景を見尽くした仙人ですら言葉を失ったという。

 

 

「無風が放った光は凄まじい勢いで天に昇り、雲を割った。じゃが、そのまま空に吸い込まれるかと思いきや、踵を返すように地へ降りてきて躊躇いなく皇太子を攻撃した」



 仙人の見立てによると、その時にはすでに無風は自身の力が制御しきれていなかったようなので、おそらく怒りの暴走に本能が従うままだったのだろう。



「殿下を……? そ、それで無風は……」

「皇太子が倒れた直後、まるで事切れたかのように卒倒してな。そうしたらすぐさま聖界の者が大勢で現れ、あっという間に無風を連れていったんじゃ」



 きっと立ち昇った光柱を見て、聖界せいかいの使者たちは無風の居場所を特定したのだろう。聖君せいくんの命で国中を探し回っていた使者たちにとっては願ってもない奇跡だったはずだ。

 

 

「ということは、無風は無事なんですね」

「ワシが使者の後を追って様子を見に行った時はまだ眠っておったが、命に別状はなさそうじゃったぞ」

「そうか……じゃあ向こうに帰れたんだ……」



 使者が連れていったのなら今頃聖界の王宮殿にいるはず。そこだったら邪界の手も届かないから安心だ。

 


「ほぉ、そんな風に言うということは、お前さんは無風が白龍族はくりゅうぞくだったことだけでなく、正体までも最初から知っていたんじゃな?」

「ええ。ちょっと……まぁ昔色々あって俺が育てることになったので」



 真実を言えない蒼翠は、話せば長すぎる込み入った事情があったと言って凌ぐ。



「邪界の皇子が聖界の皇子を育てるなど、無謀すぎて逆にお前さんらしいのぉ」

「ははっ、返す言葉も……っ、イタタタ……」

「バカもの、笑ってなんぞおらず安静にしておれ。……それで、お前さんのほうの話じゃがな」



 急に仙人の表情が暗くなる。こちらはどうも楽しい話ではなさそうだ。



「お前さんがここに収監されたのは、無風の主としての責任を問われてのことじゃ」

「責任?」

「あの騒動で無風の攻撃を受けた皇太子じゃが、なんとか命は取り留めたものの傷が相当深く、太医たいいの見立てでは一生自分の足で歩くことができん身体になったそうじゃ」

「一生歩けない? ということは……」



 邪界の王になる者は、誰よりも強くなければならない。

 つまり自分の力で歩けない炎禍えんかは、皇太子として不適格となってしまった。きっと近いうちに邪君は炎禍の廃太子はいたいしを決定するだろう。

 

 

「邪界は皇太子を失った。無論、他にも皇子がいるゆえ近いうちに代わりの者が選ばれるじゃろうが、この国にとっては邪君に次ぐ柱を討たれたも同じ。しかも運の悪いことに敵対する白龍族の者に、だ……。そのことを重くみた邪君は無風は当然のこと、無風の主であるお前さんにも罪はあるとしたんじゃ」



 今、邪界はつい先日の聖界のような大混乱の渦中にある。当然ながら邪君は聖界に対し戦争に打って出るだろうが、その前に臣下たちを統率するため、混乱を迅速に鎮めなければいけない。

 では、どうするのか。

 簡単な話だ、噴き出した怒りの矛先を向ける的を身近に作ればいい。

 

 あれだけの騒動を起こした蒼翠がこうして怪我の手当までされ、生かされているのはそのためだろう。



「そう……ですか」


 まさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。

 自分でも顔が真っ青になっていくのが分かる。けれど蒼翠は懸命に口角を上げた。



「でも、無風が無事ならそれでいいです……」



 聖界に戻れさえすれば未来は安泰だし、もう二度と奴隷だの家畜だのと蔑まれることもなくなる。想像したら嬉しいはずなのに、ツキン、と胸に針が刺さったような痛みが起こった。

 

 

「無風と会えなくなるのが、辛いのか?」

「何言ってるんです……辛いわけがないじゃないですか」



 初めて出会った時から別れは承知していた。この日を何度も想像してきた。だから今さら傷つくなんてことはない。蒼翠は頬に力を込め笑顔を作って大丈夫だと言ってみせた。なのに仙人がどんな言葉をかけていいのか分からないと複雑な表情を浮かべているものだから、なんとか空気を変えようと場に合わない笑顔まで浮かべる。


「無風が在るべき場所に戻れたなら万々歳ですよ!」


 だが、仙人の顔はやはり明るくならない。


「万々歳なら、その涙の意味はなんじゃ?」

「え? あ……」


 指摘され、驚いた蒼翠が頬に手を当てると指先が滴で濡れた。


「ワシの前で強がる必要はない。辛いなら辛いと、無風を深く想っているのなら寂しいと正直に言えばよいのじゃ。お前さんの気持ちを批難できる者なぞ、この世界に誰一人おらん」



 柔らかな声で慰められた瞬間、プツンと蒼翠の中で張り詰めた糸が切れる。

 続くようにして自分でも驚くぐらい強い感情が、胸の奥から零れ出した。

 


「……っ……」



 本当は無風と永遠に離れたくなかった。誰にも渡したくなかった。できるものなら皇太子なんて知ったことかと、ドラマの蒼翠のように強欲になって実の父母や聖界から無風を隠し、一生自分だけのものにしたかった。

 どうして天はこんな厳しい運命を課したのだろう。無風が隣にいてくれるのなら地位も名誉も、それこそ長い命だっていらないのに、どうしてこんな小さな願いすら叶えてくれないのだ。




「俺は……」



 無風ともう二度と会えないなんて、耐えられない。

 もう一度会いたい。



「無風っ……無風……っ……うぅっ……」



 絶望と悲しみに染まった慟哭となり、冷え切った牢獄に響き渡る。 

 

 

 別離が、これほどまでに苦しいものだなんて思わなかった。



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