53話:不安



 大きく開いた窓からそよそよと心地好い風が舞い込むと、天井から吊してある珠飾りがカツンカツンと控えめな音楽を奏で、蒼翠そうすいの耳を楽しませた。

 太陽の日差しこそ降りてはこないが、今日は春の暖かな日のように暑くもなく寒くもなくて過ごしやすい。こんな日には池の辺にある東屋で淡く色づいた睡蓮を眺めながら仙人と茶でもすれば、長閑な時間を楽しめるだろう。でも。

 

 

「多い……多すぎる……」


 こんな日に限って確認しなければいけない書簡が山ほど届くのだ。どの世界でも仕事というものは全然空気を読んでくれない。おかげで朝からずっと部屋に缶詰状態だ。


「疲れた、目が痛い……」



 筆の持ち過ぎで腕は震えてくるし、ペンダコならぬ筆ダコはジンジンと鈍い痛みを訴えてくる。これはそろそろ休憩を挟まなければ、夜に強烈的に苦い痛み止め湯薬の世話になりそうだ。

 


「あったかいお茶と甘い菓子が食べたい」



 疲労には甘いもの。脳がそう訴えてくると、たちまち労働意欲は彼方へと飛んでいった。

 よし、やはりここは小休憩だ。 



「無風、無風!」

 

 

 今日はなんのおやつを用意してくれてるんだろう、と心を躍らせながら無風を呼ぶ。

 しかし、いつもならすぐに聞こえてくる無風の足音が、いくら待っても聞こえてこない。

 


「あれ? 聞こえてないのか……――――あっ」



 首を傾げたところで気づく。

 そうだった、今日の無風は酒の調達のため彩李さいりの町へ出向いているのだった。



「いないのか……」



 ということは温かいお茶も、茶菓子もやって来ない。

 

 

「嘘だろぉ」



 もう完全に甘いものの口になっていたのに。

 蒼翠のような立場の人間は、基本的に従者がすべてを察して必要なものを用意する決まりになっているため、お腹が空いたからと自ら厨房へ足を向けることは恥ずべき行為と見られてしまう。しかも最近は身の回りの世話のすべてを無風が担っているため、他の者は呼んで聞こえる場所にいない。

 ちなみにこれは余談ではあるが、以前蒼翠の側近をしていた半龍人の配下もここ数年顔を見ていない。無風曰く、仕事を早く覚えるために半龍人はんりゅうじんの職務も引き受けているといっていたが、あれがまだ続いているのだろう。

 

 と、それはさておき、何がどうであれ無風が戻ってくるまで茶も菓子もお預けということに変わりはない。



 

「くそっ、仕事が遅れて邪君の臣下たちに嫌味言われたら、無風に責任取らせてやる」




 帰ってきたら休む暇なく茶菓子を作らせて、夕食には調理が面倒な肉入りの蒸し饅頭をたくさん要求してやる。その後はクチナシの香りの入浴液をたっぷり入れた風呂で、肩揉みもさせよう。と、そこまで考えたところでふと思考が止まった。

 

 ――あれ、ちょっと今日帰り遅くないか?



 無風が屋敷を出たのは朝食後すぐ。いつもなら昼前には帰ってきているのに、今日はもうとっくに過ぎている。

 常に時間には正確な無風が遅れるなんて珍しい。何かあったのかと不安を巡らせたところで、蒼翠の頭に嫌な予感が走った。



 ――まさか、聖界の使者が来た?



 炎禍えんかのせいで聖界せいかい邪界じゃかいは今、少し触れただけでも崩れる砂の城のような危機感の中にいる。ゆえに聖界の使者がずけずけとこちらの縄張りに入ってくることがないと安心しきっていたが、無風が向かった彩李は聖界に属する町。

 つまり、いつ使者と出会しても不思議ではないということだ。

 

 

「マズイっ!」


 蒼翠は両手で机をドンと強く叩くとその勢いで立ち上がり、そのまま屋敷を飛び出す。

 

 

 ――やめてくれ。まだ……まだ無風を連れていかないでくれ。



 無風を聖界に返す運命が避けられないものだとしても、こんな形で別れるなんて耐えられない。

 無風とはまだやりたいことがたくさん残っている。

 成人の祝いにと極上の反物を使って密かに仕上げさせた着物も、特別に取り寄せた香木で作った無風お気に入りの香も渡せていない。

 それに別れの日が決まった夜には、一等級の酒を酌み交わしながら思い出話に浸り、最後にはちゃんと笑って送り出してやると決めていた。

 

 だからまだ返せない。返したくない。

 それだけを繰り返しながら、蒼翠は無風の下へと急いだ。



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