51話:炎禍再来②



 さすが傾城の美女と称され母妃と我が邪君じゃくんの子だ、といやらしく口角を引き上げた炎禍えんかの、なんともいえない気色の悪さに背筋がぶるりと震える。

 炎禍はこんなことをする男だったか。確かにここ数年、蒼翠そうすいの屋敷を訪れては我が物顔で茶を要求し、延々と無駄話をするという意味不明な行動を繰り返していたが、一度もこのように触れてきたことはなかった。

 

 

「今の私は邪君じゃくんから全幅の信頼を得ている。この邪界じゃかいで私に逆らえる者は邪君以外誰もいないだろう」

「そ……それは頼もしいですね」

「ゆえにこの私の傍にいれば、誰もお前を虐げない」

「はぁ……」

「だから蒼翠、お前は私の側近になれ。承諾すればすぐでもお前の寝所を私の屋敷へと移し、どんな悪の手からもお前を守っていると約束してやろう」

「…………はい?」




 話を全部聞いてなんとか理解しようと努力したが、やはり何を言っているのか分からなかった。炎禍の勢力が他のどの皇子より勝っているのは知っているが、それと側近の話とどう関係があるというのだ。それに、そもそもとっくに成人した皇子が、他の皇子の屋敷で暮らすなんて前代未聞すぎる。

 

 

「あの……仰ってることがよく分からないのですが」

「なんだ、恍けたふりか? それとも私のことを焦らしているのか?」



 大きな歩幅で近くまで寄ってきた炎禍はニヤリと下品な笑みを零すと、断りもなしに伸ばした手でこちらの頬を撫でてきた。しかも反対の手では強く肩を押してきて、こちらが抵抗しなければ座っていた長椅子に倒れ込むところだった。



「で……殿下?」

「恥ずかしがらなくてもいい。それとも周りからの目を怖がっているのか? それなら心配には及ばない。他の弟皇子たちに何を言われようが、私が蹴散らしてやる」



 望みなら存在そのものを消してやったっていいと、物騒なことを平然な顔で言われ、蒼翠は全身を固めることしかできなかった。

 これは一体どういう状況なのだ。自分は炎禍に何をされるのだ。事態がわずかも読めないうえ、まったく話も通じそうになくて蒼翠はとうとう言葉を失ってしまう。

 蒼翠の頬を撫で回していた骨太のがさついた指がゆっくりと顎をくすぐり、そのまま首元、鎖骨へと降りていく。



 ――もしかして俺……今、殺されそうになってるのか?

 

 

 このまま炎禍の指が首に食い込めば、自分は満足に抵抗することもできず死を迎えることになる。

 

 

 ――嘘だろ、これまでどんな危機だってなんとか回避してきたのに。

 

 

 まさかこんな何気ない時にあっさり、なんて想像もしていなかった。驚きと恐怖が綯交ぜになったところへ、強い焦りまで湧いてくる。頭の中は真っ白になり、命だけは助けてくれと懇願することもできない。

 

 

 ――無風、無風、無風。

 

 

 もしここで最期を迎えるのなら、せめて無風の顔を見て逝きたい。心の中でそう願ったその瞬間。




「失礼いたします」



 聞き慣れた声が部屋の入り口から聞こえ、蒼翠はハッと視線を向ける。

 そこにいたのは今まさに求めてやまなかった人間の姿だった。

 

  

「無、風……」


 まさかこんなタイミングで来てくれるとは。自分でも気づかなかったぐらい緊張していたのか、無風の姿を見た途端に安堵の息が零れる。



「お話中失礼します。殿下にご挨拶申し上げます」


 

 蒼翠と炎禍の異常な様子を見てもまったく動じず、いつものような美しい所作で無風は拱手する。



「チッ……誰だ、私の邪魔をす……っ、貴様は……」



 声の方向に振り向いた炎禍は、話しかけてきた相手が無風だと知るや否や顔を険しく歪め、天敵を殺す目で睨みつけた。


「蒼翠のところの奴隷め。お前のような下賎な者が私に声をかけるとはいい度胸だな。死にたいのか?」

「私のような者が殿下を煩わせるご不敬を、どうかお許しください。ですが急ぎでお伝えしたいことがございまして」


 

 代わって無風のほうは、炎禍に強く睨まれているというのに余裕のある笑みを浮かべている。ただ、どうも目の奥が笑っていないように見えるのは自分だけか。



「なんだ。くだらないことなら、斬るぞ」



 蒼翠を押し倒す体勢から立ち上がった炎禍が、苛立ちを露わにしつつ自身の剣に手をかける。

 これは本気の怒りだ。炎禍は気が短く、他者の命なんて塵屑としか考えていないと知っている蒼翠は慌てて庇おうとしたが、その前に冷静な無風が頭をさらに深く下げ、言葉を続けた。



「屋敷の外で側近の方が殿下をお探しになっておられました。どうやら邪君が殿下をお呼びになっているようです」

「なにっ、邪君がっ?」



 皇太子であろうと邪君の命には即時応じなければならない。

 邪君の名を聞いた炎禍は一瞬で顔色を変えると、火中から飛び出す栗のごとく勢いで蒼翠の屋敷を後にした。その様子を呆けた顔で見ていた蒼翠だったが、無風がこちらに近づくと同時に先程のことを思い出すと、思わず立ち上がり地を蹴った。

 

「無風っ!」



 今は主の体裁とかどうでもいい。とにかく炎禍に押しつけられた死の恐怖を拭いたくて、蒼翠は飛び込む勢いで無風に抱きついた。



「蒼翠様っ?」

「今日が…………」

「え?」

「命日になるかと思った」



 無風は驚きの声を上げたが、すぐにすべてを察してくれたかのように背中に腕を回し、抱き締め返してくれる。

 

 

「大丈夫です。蒼翠様は私が絶対に守りますから」



 この邪界で絶大な権力と皇太子相応の霊力を有する炎禍相手に、覚醒前の無風ができることはないに等しい。けれど、それでも、無風の言葉は何よりも安心させてくれる。無風なら何を言われても信じていいと思ってしまう。やっぱり無風はすごい。

 


「俺はさ……何十年後、何百年後かどうか分からないけど、最期の瞬間を迎える時、無風を見ていたいって願う時がある」



 絶対に無理だと知っているけれど、何も考えたくなくて無風の背中に回した腕をにギュッと力を込める。



「どんな瞬間も私は蒼翠様のお傍にいます」

「ん……」



 そんな日が一日だって長く続いて欲しいよ。無風には聞こえない声でボソリと呟きながら、無風の鼓動の音に蒼翠は耳を傾ける。

 今はこの音ですら、蒼翠の幸福だった。




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