7月6日『筆』
和の国の滞在三日目の朝。私が起きた時には、ラビン師匠は外出していていなかった。
華子さんから聞いた話によると、師匠はこの国の偉い人から呼び出されたそうだ。
ってことは、つまり?
「雫様は今日一日、うちの敷地から出ないように、とのことです」
華子さんは困ったように微笑みながらそう言った。
うん、まあ、そうだよね。初めての国で一人うろちょろするのは危ないもんね〜。
師匠の指示は妥当だと思う。とはいえ。
「暇すぎる!」
私は時間を持て余していた。
小雨が降る中、傘をさして庭を散策したり、手の空いている呉服店の店員さんに着物を見せてもらったりしたけれど……。
昼食を
退屈している私を見かねてか、若い女性の店員さんが声をかけてきて、
「雫様、よろしければ
と提案してくれた。
離れ離れの織姫と彦星が年に一度会える日で、人々はお願い事を紙に書いて他の飾りと一緒に笹につけるのだとか。
そういえば、店先に飾り付けられた笹があったな。あれが七夕飾りだったのか。
説明してくれた店員さんにお礼を言って、私も願い事を短冊に書くことにした。
店内の空いたスペースに短冊と筆記具を用意してもらったのだが……。
「お待たせしました。
「……変わった形のペンですね」
使い方がよく分からない。
私が首を傾げると店員さんはハッとした表情で、
「すみません、雫様は異国の方でしたね。筆なんて扱いにくいですよね……。今、鉛筆をお持ちします」
と申し訳なさそうに言われてしまった。
「この国の人は、この筆記具で文字を書くんですか?」
「えぇ。鉛筆や万年筆などもありますが、普段は毛筆を使う人が多いです」
「なら、この筆で書いてみます。使い方を教えてもらえますか?」
「よろしいのですか?」
「はい。この国の文化に触れる良い機会だと思うので」
短冊とは別の紙を持ってきてもらい、教えてもらいながら私は毛筆の練習を始めた。
◇ ◇ ◇
和の国の要人に呼び出され、長々と接待され、やっと解放されたのは夕暮れ時。
精神的な疲れを感じながら、ティアと一緒に滞在している呉服店に戻った。もう店員達が閉店準備をしている時間だった。
「深淵様、おかえりなさいませ」
店先で出迎えた店主の華子さんに、今日のティアの様子を
「雫は大人しく過ごしていましたか?」
初めての異世界旅行をあんなに楽しみにしていたティアなので、僕が不在にしている間、指示通りにしていたか不安だったのだが。
「はい。雫様は熱心に筆の練習をなさっていましたよ。短冊にお願い事を書いていただいたので、こちらに飾らせていただきました」
華子さんは店先の七夕飾りを手で示した。笹に短冊や折り紙で作られた飾りが付けられている。
「あぁ、明日は七月七日だから七夕か」
ティアがどんな願い事を書いたのか興味があって、七夕飾りの中からあの子の短冊を探す。それはすぐに見つかった。
「これは……」
薄水色の短冊に書かれた文字は、ティアの母国語だ。
僕には読める。読めたのだが。
「異国語でわたくしには読めなかったのですけれど、何と書かれているのですか?」
華子さんに質問されて、僕は読み上げる。
「『いつか師匠のような優しくて強い魔法使いになれますように。』と」
「あら、まぁ。深淵様は慕われていらっしゃるのですね」
華子さんはニコニコと穏やかな笑顔で言ったが、僕は内心複雑だった。
僕は、優しい人間なんかじゃないのに。
「ティア、戻ったよ」
呉服店の裏側、大きな母屋の隣にある離れに帰ってくると、ティアはすぐに出迎えてくれた。
「おかえりなさい!師匠がずっと外に出ていたから、私、どこにも行けなかったんですけどー!」
ティアは少しふてくされたように唇を尖らせて不満顔だった。僕は苦笑して謝る。
「ごめんごめん。和の国のお偉いさんに呼び出されて『ずっとこの国に居てほしい』って懇願されちゃってさ」
「え、そうだったんですか?」
「うん。僕がここにいれば、他国に攻め入られる可能性が格段に減るんだろうね。ま、丁重に断ってきたけど」
履き物を脱いでから部屋に戻る。畳の香りを感じながら座布団の上にあぐらで座った。
ティアも足を崩し、机を挟んで向かいに座る。
「さっき、ティアが書いた短冊を見てきたよ。今日は筆の練習をしていたんだって?」
「はい。店員さんに教えてもらって、白い紙で何回も練習したんですよ。筆って難しいけれど、面白いペンですね〜」
ティアは楽しそうに昼間のことを話してくれたが、
「……僕は、ティアが思っているような優しい人間じゃないよ」
「ん?」
我ながら卑屈になっているな、とは思ったが、一度吐露した言葉は止まることなく流れ出てしまう。
「僕は、戦場で……魔物も魔族も、人も、魔法でたくさん殺してきた。僕がやってきたことは傭兵の仕事と同じ。ただの人殺しなんだ」
「師匠?」
「ティアは、僕みたいな魔法使いになってはダメだよ。君には才能がある。その力は、もっと良い使い道があるはずだ」
自身を嘲笑しながら話した。
ティアは十数秒きょとんと呆けた後、真顔で口を開いた。
「師匠。あなたが過去にどんなことをしてきたのか、私は詳しく知りません。でも、今のラビン師匠は、私の目標なんです。前に師匠だって言っていたじゃないですか。『人間は良くも悪くも変わる』って。戦に出ていた頃の師匠に会ったことはないですけど、その時の師匠と今の師匠は違うでしょう?今の師匠は、優しくて強い人です。弟子の私が保証します」
「だけど……」
僕が言い
「師匠!これ以上ぐたぐた言うなら私怒りますよ!」
「もう怒っているじゃないか」
ティアに反論する気は失せて、僕は力無くヘラリと苦笑した。
僕にどんな過去があろうと、この子にとっては《今の僕》が目標らしい。
過去は変えられない、と分かっている。
僕は自分が優しい人間だとは思えないが、せめて、ティアの師として模範になるように努めよう。ひそかにそう決意した。
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