Day2:京都へ
夕方のラッシュアワー。
僕らは人の波が右から左からと押し寄せる東京駅構内を歩いていた。
経済が傾いたとはいえ、首都東京の中心駅は帰宅時間となるとさすがに混み合っている。
僕が引く麗ちゃんのキャスターバッグの音も沸き立つ喧噪の中、かき消され聞こえてこない。
麗ちゃんは、
人混みを抜け、リニアの券売コーナーに着くと、麗ちゃんは携帯フォンでチケットを買った。
もらったチケットを見ると、自由席だった。いつもは華族特等席なので、これも事件のせいだろう。
じっとチケットを見る僕の様子を見て悟ったのか、麗ちゃんは
「特等席だと知り合いがいるかもしれないから」と苦笑いした。
リニアの自由席ホームは長蛇の列が等間隔で続いていた。
これは赤字のため、ダイヤがかなり間引かれたせいだろうと思う。
その人の列の最後尾に僕らは並んだ。
「これじゃ座れないかもね」と麗ちゃんは肩をすくめた。
リニアモーターカーの平坦で白い車両がホームに滑るように入ってきて、静かに停止した。
車内清掃が終わり、ドアが開くと、人々が一気になだれこんだ。
車内はごった返しで、麗ちゃんの懸念どおり、席は確保できなかった。
僕らはドア近くに立ち、京都まで行くことにした。
「ごめんね。郁」と麗ちゃんが僕に謝る。
「いいよ。どうせ、防音壁で景色なんか見えないし、一時間もかからないから」と笑って答えた。
リニアが走行を始め、品川駅を過ぎた辺りで、麗ちゃんの視線が床に落ちた。
その様子に僕は車内を見回した。
乗客たちが広げる夕刊紙に『九条院』の大きな文字が踊っていた。
ここの人たちが麗ちゃんを知ってるはずもないけど、僕は彼女を背で隠した。
近くの席でサラリーマン風の男が、
「俺さ、メインバンク、九条院なんだよな。早めに預金おろしたほうがいいな」と読んでいた夕刊を乱暴に閉じた。
「俺もだよ。まいったな」と隣の男が舌打ちするのが聞こえた。
麗ちゃんが僕の後ろで身を小さくするのが、なんとなくわかった。
しばらくすると、彼女も落ち着いたのか、
「絶対に潔白を証明しないと」と小声でつぶやいた。
「そうだね」と僕はそれに相槌を打ち、その手をそっと握った。
それから、そういえば麗ちゃんは今朝まで病院にいたんだと気付き、「キャスターバッグに腰掛ければ」と勧めたら、
「いいえ、この人たちへの迷惑のことを考えると、とても座ってる場合じゃないわ」と答えた。
そのあと、彼女は始終無口で僕は心配だったが、特に何事もなくリニアは京都駅に着いた。
ホームに降り立ち、「皇爵は京都のどこにいるの?」と歩きながら麗ちゃんに訊いた。
「下鴨の別邸よ。でも、お伺いするのは明朝だけどね」
「明日? じゃあ、今日はこれからどうするの?」
僕は足を止めた。
「泊まるところを探さないとね」
麗ちゃんは簡単に答えたが、高校に入ったばかりの僕と麗ちゃんだけで宿泊なんかできるんだろうか、と僕は思った。
◇◆◇
駅ビルを出て、京の地に僕と麗ちゃんは降り立った。
ここは天皇陛下ゆかりの地。
四十年前、東京を去った天皇陛下は、今は京都御所を居所とし、時を同じくして移転した宮内庁と共に公務にあたっている。
僕にとっては生まれた時から京都といえば天皇陛下の地だったので、何の違和感もないのだが、年配の方にとっては天皇上洛は一大イベントだったらしい。
ライトアップされた新京都タワーには『天皇陛下御帰還四十周年』の大きな垂れ幕がはためいている。
駅前は大勢の人で賑わっていた。
僕らはその人ごみをすり抜け交差点までたどり着くと、横断歩道を渡り新京都タワービルの下で足を止めた。
腕時計を見たら、もう午後8時を回っていたが、通りの向こうは大きな人垣、通りにはタクシーの客待ちの列で活気があった。
「麗ちゃん。疲れたでしょ? どこかで夕食でも食べる?」
僕は昼がココアだけで、とてもお腹が減っていた。そういえば、麗ちゃんは昼食はどうしたのだろう?
「そうね、この辺のレストランで食べましょうか?」
僕はそれに大賛成して、二人で近辺のビルにあるレストランを巡ったが、どこもいっぱいで、二人は元いた交差点まで戻ってきた。
「うーん、なにかイベントでもあったのかな? 駅前も人が多かったけど」
無駄足になってしまい、心身ともに疲労困憊している麗ちゃんが気になった。
「ごめんね。疲れたでしょ。麗ちゃん」
「私は大丈夫。じゃあ、もうホテルに行って、そこでなにか食べましょう。早くしないと遅くなっちゃうから」
麗ちゃんが僕の手を引き、どんどん歩いていく。
「麗ちゃん。ホテルは予約したの?」
ガラガラとキャスターバッグの音を引き連れながら、僕が訊くと、
「京都だし、観光地なんだから、ホテルなんかいくらでもあるから大丈夫でしょ」と麗ちゃんは気にかけない。
そうこうしているうちにホテルも旅館もないまま、川辺にたどり着いてしまった。
二人で橋の上から、いかにも浅そうな川を見下ろした。
「これって鴨川?」
「多分、そうね。四條烏丸のほうに歩いたつもりなんだけど」と麗ちゃんは引きつった笑みを浮かべた。
橋の向こうを見ると、住宅街の背後に暗い山陰が連なり、ホテルや旅館はありそうに思えなかった。
そのあと、僕らは方角もわからぬまま、夜中の京の街を右往左往した。
麗ちゃんはいつも移動が車のせいか、かなりの方向オンチのようだった。
石畳の路地裏を曲がり、いかにも京都っぽい風情の一角に踏みこんだ辺りで、麗ちゃんはついに疲れ果てて道端にしゃがみこんでしまった。
「ああ、もうダメだわ。限界かも」
彼女は組んだ腕に顔を突っ伏して動かない。
「麗ちゃん、大丈夫? 少し休もうか」と僕が彼女の背中をぽんと叩くと、彼女が顔を上げた。
その視線は道の先の一点を凝視していた。
僕がそっちを見ると『お宿』の看板。
僕らは木戸をくぐって、石灯籠風のライトが足下を心許なく照らす中、竹塀が続く路地を進んでいった。
辺りはとても静かで、聞こえるのは僕らが響かせる靴音ばかりだった。
「こっちでいいのかな?」
あまりの人気のなさに不安になり、僕は麗ちゃんに訊いた。
「でも、こっちしかないし」と麗ちゃんは周囲の静かさに気が引けたのか、ささやき声になっていた
家一軒分ほどの距離を歩き角を曲がると、『旅館竹屋』と淡く光る看板の下に硝子戸が見えた
二人で旅館の中に入った。
玄関先は薄暗く、見回すと旅館というより普通の日本住宅といった感じで、間口も狭いし、受付も見当たらない。
誰もいなかったので「ごめんください」と呼ぶと、奥のほうで人の気配がした。
しばらくして、女将らしき和服の中年女性が出てきて、僕らの身なりを一通り見てから、
「どないしはりました?」と訊いてきた。
「あのー、泊まりたいんですけど……」
「お二人、学生さんでっしゃろ?」
女将は一歩引いて、また大げさに僕らの制服姿を確認した。
学生がこんな夜半に来たので
「実は観光中に親とはぐれた挙げ句、迷子になってしまって、あいにく携帯フォンも持ってないので、途方に暮れてたんです。今日は疲れたので、ここでできれば泊まりたいのですが……」
僕は適当にでまかせを言った。
「あら、それはお困りでっしゃろな。うちでよろしければ、どうぞ」
僕と麗ちゃんは顔を見合わせ、笑った。
やっと、ゆっくりできる!
それから、僕は女将に宿泊料を前金で支払い、宿帳に名前を書こうとしたが、麗ちゃんが取り上げて、日々之麗、日々之郁と書いた。
案内された部屋は六畳一間の和室で、リフォームしたのか、旅館というよりビジネスホテルのような造りで、入り口と部屋の間にユニットバスがついていた。
「よかった。お風呂がついてるじゃない。こんな旅館じゃ浴室はないかと思ったけど」
麗ちゃんがユニットバスの中をのぞきながら、弾んだ声で言った。
僕は部屋の腰高窓を開けてみた。すると、すぐそこは隣の家の軒先だった。
部屋を見回すと冷蔵庫もなく、テーブルの上にあったポットにはお湯は入ってなかった。
「お腹減ったんじゃない? 麗ちゃん」
「もう動く気力もないし、お風呂に入ったらすぐに寝るわ」
麗ちゃんは畳にごろんと寝転がり大の字になった。
「僕も寝ようっと。起きてるとお腹減るし」と言いながら、まだ部屋になにかないか探す僕。
「ねえ、郁」
「なーに?」
「一緒にお風呂に入る?」
寝転がって天井を仰いだままの麗ちゃんが気の抜けた声で訊いた。
湯飲みを手に取り眺めていた僕は、思わずそれをテーブルに落としてしまい大きな音が部屋に響いた。
「麗ちゃん! な、なにバカなこと言ってるの!」
焦る僕に、麗ちゃんはむっくりと上半身を起こし、半眼で僕をにらんだ。
「なにを今さら恥ずかしがってるのよ。昔はよく一緒に入ったじゃない」
「それって、幼稚舎とか小学校に入ったばかりのころだろ! それにさ!」
「それになによ?」
「ここユニットバスだし、二人で入るには狭すぎるよ」
それを聞いた麗ちゃんはすくっと立ち上がり、キャスターバッグを開け、
「はいはい、私はどうせ魅力のない女ですよ」と愚痴をこぼしながら、着替えを持ってユニットバスに入っていった。
しばらくすると、シャワーの音と体を壁のあちこちにぶつける、やかましい音が鳴り響いた。
いつも広々としたお風呂に入っている麗ちゃんだから仕方ないのだが、とてもうるさかった。
他にお客さんがいないといいのだけど……。
その賑やかな音を聞きながら、押し入れから二組布団を出し、麗ちゃんがすぐ寝られるように用意した。
旅館の浴衣に着替え、その上に寝転がった途端、疲れと空腹のせいか一気に睡魔が押し寄せてきた。
でも、自分より大変なはずの麗ちゃんより先に寝るわけにはいかないので、うとうとしながらもなんとか耐え忍ぼうとした。
とはいえ、多くの女性の例に漏れず麗ちゃんの入浴も長かった。ついに僕の意識はまどろみの中に引きずり込まれてしまった。
◇◆◇
どのくらい眠ってしまったのだろう──。
夜半、突然目が覚めた僕は、辺りの気配を確かめようと身をよじった。
そういえば、掛け布団の上に寝転がっていたはずだが、ちゃんと布団の中に入っている。
それにどこからか、かすかに清涼系のいい香りもする。
ちょっと腕を動かしてみたところ、手先がなにか柔らかい物に触れた。
びっくりして完全に覚醒した僕が見たのは、間近にある麗ちゃんの顔。
彼女はこっちを向いて静かに寝息を立てて寝ているようだ。
また体をよじって反対側を見ると、空っぽの布団。
どうやら僕は寝たまま布団の上を転がされて、麗ちゃんの布団に入れられたようだ。
と、僕がガサゴソして、目が覚めたのか彼女の小さな声がする。
「麗ちゃん、起きちゃったの?」
声をかけたが、返事がない。
耳を澄ますと、
「なんとかしないと。なんとかしないと」と何度も言っている。
どうやら寝言のようだ。夢の中でも今回の事件で悩んでいるのだろう。
僕は空っぽになった自分の布団を眺めながら、戻ろうかどうか考えたが、このまま寝ることにした。
心でつぶやく。
麗ちゃん。お疲れ様。
布団の中で、そっと彼女の手を握った。
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