15:なみなみ
無銭飲食の罰としてXが命じられたのは、皿洗いだった。
切り刻まれて鍋に放り込まれなかっただけ、良かったと思うべきか。
しかし、Xも変なところで警戒心が薄いというか何というか、『異界』において、出された食べ物をほいほい口に入れてしまう、というのはどうかと思う。いくら潜航装置を通して、見えない命綱で『こちら側』と繋がっているといえ、
まあ、ディスプレイに映る景色を見る限り、辺り一帯に料理店が軒を連ねており、それぞれの店が道行く人々をありとあらゆる手段で誘っているのだから、空腹を意識させられるのは否定できない。研究室が基本的に飲食禁止ということもあり――これは規定の食事しか許されていないXに対する配慮が主な理由だが――、口の中に唾が溜まって仕方ない。
色とりどりの看板を出して主張をしている店、道に面した厨房での調理風景を見せつける店、そして、自慢の料理を手に呼び込みをしている店。……『こちら側』、特にこの国においては試食という文化があるが、一歩我々の文化を離れれば、出されたものが必ずしもタダであるとは限らない。むしろ、タダであることの方が稀有なのだということを、Xはどうも失念していたと見える。
そんなわけで、目の前に差し出された、正体の定かではない肉の串焼きを断ることができず、つい食べてみてしまったXをことさら責めることはできない。しかし、見ている私は、もう少しくらい警戒してほしいと思うわけだ。
Xが渡されたものを一通り食べてしまった後に、Xが一文無しだと知った店員は、もちろん憤った。それはそうだ、客にもならない相手に食べさせていいものは何一つない。
ただし、どんな罵倒をされたのかは、何一つとしてわからなかった。単純に、言葉が通じないのだ。Xに串焼きを渡した狐のような姿の店員も、その後Ⅹの前に現れた大柄で赤い肌をした店の主人も、知らない言葉で何かをまくしたてていたし、Xのたどたどしい弁明もさっぱり伝わっていなかったようだから。
とはいえ、互いの言葉が通じない、ということはこの『異界』にはよくあることらしく、Xと言葉での意思疎通ができないとみた店主は、人間よりも多い指で厨房を示し、皿を洗うように身振りで示してみせたのだった。
かくして、Xは胃の中に収めてしまった串焼きの分、粛々と皿洗いに励んでいるのだった。
店の中はさほど広くはないが、人――と言っても『こちら側』の人間とはいささか異なる姿をしている――でぎゅうぎゅうになっている。どうやら、かなり回転が速い店であるようで、店長をはじめとした店員たちは常に動き回っており、Xが洗うものにも事欠かない。
それでも、時折周囲に目を向けてみれば、厨房では様々な料理が作られているのが見えた。中には先ほどXが食べた串焼きもあったが、厨房で見ても、それが何の肉なのかは結局わからなかった。わからなくてよかったのかもしれないが。
料理の中でも特に多く作られているのが、大きな丼の中に麺と多彩な具を入れ、なみなみとスープを注いだものだ。見た目だけで言うならば、ラーメンに近いだろうか。ただし、スープは血のように赤く、何ともおどろおどろしい。もしくは、とても辛いのかもしれない。ここから観測できるのはXの視覚と聴覚だけで、嗅覚や味覚、それに触覚は伝わらないため、一体どのようなものであるのかを正しく知ることはできないのだが。
店員は盆に真っ赤なスープを満たした丼を載せ、素早く、しかし丁寧に客の間を巡っていく。丼から溢れんばかりに注がれたスープを一滴もこぼすことなく客に振舞うという一連の動作は、見ているだけでも気持ちがよい。
とはいえ、それをじっと見ていられるほどXも暇ではない。手を止めている間に再び積みあがってきた皿を、せっせと洗ってゆく。その手つきは意外にも慣れた様子であり、厨房で料理人に指示を飛ばしながら自ら調理器具を操る店長も、Xの仕事ぶりに文句をつけることはなかった。
その時、突如としてスピーカーから響いてきた、がしゃん、という、食器の割れる音。客たちの悲鳴、そして、そんな悲鳴よりも更に激しい、罵声。
せわしなく動いていた店員たちの動きがぴたりと止まり、Xもこれにはいったん皿を洗う手を止めて、客席の方を覗いてみる。
すると、獅子のような顔つきをした一際体格のよい客が、狐のような店員の手首を片手で握りしめ、もう片方の手で自分の服を指して何かを喚き散らしていた。こういう時に言葉が通じないのが何とも不便だが、服にわずかに赤い汚れがついているところを見るに、スープが跳ねて服にかかった、と主張しているのかもしれなかった。
ぺこぺこと頭を下げる店員、しかし客の怒りは収まるところを知らないようで、店員の腕をひねり上げる。店員がか細い悲鳴を上げ、他の客たちもすっかり食事どころではなくなってしまっている。
厨房からぬっと出てきた店長が、獅子面の客に何かを言いかけたその時、その客は獰猛な表情を浮かべながら、足元に落ちた丼の欠片と、すっかり床にこぼれてしまった、スープに入っていた具と麺を、靴の底で踏みつける。
それを目にした途端、ディスプレイに映った視界が激しく動く。つまり、この視点の持ち主であるXが動いたのだ――と思った次の瞬間には、Xは獅子面の客の、毛に覆われた太い手首を握りしめていた。
ぎろり、と獅子の顔の中で、視線だけがXの方を向く。そして、Xに何かを言おうと大きな口が開かれかけ……、次の瞬間に放たれたのは、情けない悲鳴だった。それと同時に手が緩んだのか、拘束されていた店員が客の手を振り払い、Xの視界の外へ消えていく。
Xは、視線を獅子の顔から外していなかったため、ディスプレイの外側で何が起こったのかは定かではない。この獅子面の客に、Xが己の手元を見もせずに何らかの方法で苦痛を与えたのだろう、と想像できるだけで。
ただ。
「お客様は、神様、と、言いますが」
低く、囁くように。辺りがしん、と静まり返る中、告げるのだ。
「人が作ったものを踏みにじるのは、そもそも客じゃない。帰ってください」
怒っている。
Xは、常日頃から感情を露わにする方ではない。特に、笑ったり、泣いたりといった、強い感情を伴う表情を見せたことは皆無だ。今だって普段通りのトーンで喋っているが、しかし、Xが「怒っている」のだということは、何とはなしにわかる。
言葉は何一つ通じていないはずだが、Xの静かな怒りの声音に気圧されたのか、獅子面の客は、獣じみた唸り声をあげながら、Xに向き直る。そして、威圧するかのように、ただでさえ大きな体を更にぶわりと膨らませ、拳を振り下ろそうとした、が。
「食べる気がないんでしょう、なら、構いませんよね」
Xはさらりと言い放ち、その拳が振り下ろされる前に、自分よりも遥かに巨大な相手の懐に素早く潜り込み、その胸と腹の間――人体で言うところの鳩尾に、躊躇いなく拳を叩きこむ。獅子面の客は、かは、とままならない呼吸の音を立てて、ふらつく足で一歩下がる。だが、それでも倒れることはなく、顔を歪めながらもXを見据える。
まだ、やるつもりなのか。Xは格闘の構えを崩さないまま、じっと獅子面の客を見つめていたが、その時、Xの視界を何かが遮る。
それが、店長の巨体であると判断できるまでには、一拍の間が必要だった。
店長の姿は厨房にいたときよりも遥かに膨れ上がっており、体を膨らませた獅子面の男よりも頭一つ以上は大きかった。そして、くまなく筋肉に覆われた腕を上げて、獅子面の客を一喝する。スピーカーがびりびりと鳴るほどの大音声が、響き渡る。
かくして、獅子面の客は顔を引きつらせて体を縮め、すっかり怯え切った様子で、店を飛び出していったのだった。
しん、と静まり返った店を見渡した店長は、腕を下ろし、膨らんでいた体を元の大きさに戻すと、うって変わって笑顔を浮かべて、明るい声で何かを言う。途端、店に残っていた客たちが歓声を上げた。硬直していた店員たちも明るい表情を取り戻し、客たちに頭を下げながら床にこぼれた料理を素早く片付け、再び店に活気が戻る。
Xも上げかけていた手を下ろし、厨房に戻ろうとする。すると、店長がXの肩を叩いた。見上げれば、店長は豪快に笑っていた。勝手な行動を取ったXを叱責する気配がないことに、私は内心安堵する。しかし、笑いかけてきた店長に対してXがどんな顔を見せたのかは、定かではなかった。
その後は、とにかく目まぐるしい忙しさになった。どうも、店長はその場に居合わせた客たちに不快な思いをさせた詫びとして、代金を取らない、ということにしたらしい。客たちは遠慮なく料理を頼み、それだけ店の忙しさは増していく。Xの視点で見る限り、洗ったはずの皿が数分後にはまた戻ってくるような状態で、とにもかくにも、目の前に積みあがっていく皿を必死に洗っていくしかないのであった。
そして、どのくらい時間が経っただろう。少しずつ積みあがっていた皿の枚数が減ってきて、最後の一枚を洗ったところで顔を上げれば、既に店は閉まっており、客の姿はなく、辺りはすっかり静まり返っていた。
そして、いつの間にかこちらを見下ろしていた店長が、何か声をかけてきた。もちろん何を言っているのかはわからない。ただ、身振りで促されるままに厨房から追い出され、肩を押される形でカウンター席に座らされる。
すると、音もなくやってきた狐のような店員が、Xの前に丼を置いた。湯気の立つ、真っ赤なスープで満たされた丼。私はその熱や香りを知ることはできないが、相当空腹を刺激したに違いない、Xがごくりと唾を飲んだ気配だけが、伝わってくる。
「食べて、いいんですか」
恐る恐る、Xは身振りを加えながら傍らに立つ店長に問いかける。店長は朗らかに笑いながら、丼を指して、食べる仕草をしてみせる。
要するに、賄いというやつだろう。タダ食いしてしまった串焼き一本分の働きは既に終わっていて、これは、与えられた仕事を弱音一つ上げずにやり遂げ、迷惑な客に対して怒りを露わにした、同じ店の「店員」であるXへの、賄い。
食べていいのだ、とわかったところで、Xは丼に向き直る。
丼にはなみなみとスープが注がれている。私の感覚では遠慮願いたい、血のような、不自然なまでに真っ赤なスープ。中に入っている具が何なのかも、定かではない。それでも、Xは特に怖じることなく、丼と一緒に置かれた箸と匙を手にする。
いただきます、と低い声で言って、Xは赤いスープを匙ですくい、一口含む。辛いのか、辛くないのか。甘いのか、しょっぱいのか、はたまた未知の味なのか。観測している私には何一つわかることはないが、ただ。
「おいしい」
と言うXの声は、いつになく満足げだった。
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