3231話

「グルルルゥ」


 トレントの森の上空を飛んでいたセトは、不意に喉を鳴らす。

 そんなセトの様子にレイは下に視線を向け……


「馬車か。こんな夜中に……アブエロからか? ギルムってことはないと思うけど」


 ギルムの門は夜になると閉じられて、余程のことがない限りは開けられることはない。

 アブエロもそれは同様だったが、それでも辺境にあるギルムよりは融通が利く。……ある意味でいい加減と表現した方がいいのかもしれないが。

 この辺は、治めている者にもよるが、それ以上に辺境にあるギルムと、近いとはいえ辺境ではないアブエロの違いという点もある。

 そんな訳で、現在トレントの森の側を走っている馬車がどこからやって来たかとなると、やはりそれはアブエロの可能性が高かった。


「けどまぁ、ボブじゃないんだし……こうして見る限り、そこまで心配する必要はないんじゃない? 随分と距離は離れているし」


 ニールセンの言葉は正しい。

 ボブを追っていた黒いサイコロは、レイが知っている黒いサイコロ……いや、黒い円球も含めて、穢れが普段移動している速度よりもかなり速かった。

 そんな速度を出した黒いサイコロと違い、現在地上を走っている馬車を追う穢れ……黒い円球の速度は、明らかに遅い。

 十分に距離が開いているので、安心して見ていることも出来る。

 そう思った瞬間、まるでレイの言葉が切っ掛けだったかのように、不意に馬車が倒れる。

 かなりの速度で走っていた馬車が倒れたのだから、ただ倒れただけですむ訳がない。

 地面を削りながら馬車の車体は転がり、当然だが馬車を牽いていた馬は馬車と繋がっている以上は逃げることが出来ず、馬車の車体と一緒に地面を転がることになる。


「嘘だろ? ……セト!」

「グルゥ!」


 予想外の光景に一瞬唖然としたレイだったが、それでもすぐ我に返ると、セトに向かって声を掛ける。

 そんなレイの言葉を聞いたセトは、翼を羽ばたかせて地上に向かって降下していく。

 レイの右肩では、ニールセンが吹き飛ばされないようにしっかりとドラゴンローブに掴まっていた。


(何で急に馬車が壊れた? いや……違うか。馬車を穢れが追っていたということは、穢れの性質を考えると、穢れは馬車に攻撃されたということになる。だとすれば……)


 馬車が転んだ理由は、車軸かどこか、もしくは車輪といった、走る上で重要な部品が穢れによって壊されたのが原因ではないか。

 そして壊れたということは、その部位が穢れに触れて黒い塵となってしまっていた……つまり、馬車で走っている時に穢れとぶつかったからではないか。

 そのようにレイには思えてしまう。

 勿論、これはあくまでもレイの予想でしかない。

 もしかしたら、単なる整備不調で馬車に悪影響が出て今のような状況になったという可能性も否定は出来ない。

 理由はともかく、今の時点で重要なのは、あくまでも馬車が転がっていることだ。

 そして馬車に近付いていく穢れの黒い円球。

 また、馬車に乗っていた者達が出てくる様子もない。

 馬車の中で気絶しているのか、それとも死んでいるのか。

 それはレイにも分からないが、馬車を守らなければならないことに違いはなかった。


「って、貴族か!」


 セトが地上に降りると、レイもまたセトの背から降りる。

 素早く馬車に近付くと、馬車に家紋と思しき紋様を発見する。

 また、夜目が利くとはいえ、馬車の作りまではしっかりと判断することは出来ないが、それでも間近まで迫って様子を見てみれば、その馬車はかなり高級な素材を使った馬車のように見えた。

 エレーナが使っているような、マジックアイテムの馬車には遠く及ばないにしろ、それでも十分なまでに高級な素材を使って作られた馬車だ。

 ダスカーが普段使っている馬車には劣るものの、それでも貴族が使うのには十分な馬車。

 だとすれば、この馬車が貴族の馬車だというのは予想出来る。

 裕福な商人の馬車という可能性もあるが、商人で家紋を持っている者は……いない訳ではないが、そこまで多くはない。

 だとすれば、やはりこの馬車に乗っているのは貴族である可能性が高かった。


「レイ、来たわよ!」


 馬車を見たレイが考えていると、ニールセンが叫ぶ。

 出来れば馬車の中にいる者達を助け出したかったレイだったが、今のこの状況でそのような真似が出来る筈もない。

 とはいえ、馬車の中の者達をそのままにしておくことも出来ない。


「セト、ニールセン、馬車の方を頼む! 出来れば中にいる連中を助け出してくれ!」


 結局レイが選んだのは、セトとニールセンに馬車に乗っている者達の救助を頼むことだった。

 穢れを倒せるのは、今のところレイだけだ。

 なら、穢れの相手は自分が行い、それ以外の用事……具体的には、馬車の中にいる者達の救助はセトやニールセンに任せればいい。


「それと、馬車の中だけじゃなくて御者もいる筈だ! そっちも確保してくれ!」


 馬車である以上、御者がいないと走ることは出来ない。

 ましてや、日中ではなく夜、しかもトレントの森の側だ。

 相応に腕の立つ御者が必要になるのは間違いなく、その御者もどこかにいる筈だった。

 問題なのは、御者は馬車の外にある御者台に座っていたことだろう。

 シートベルトの類もない以上、馬車が転がった時に御者は吹き飛ばされた可能性が高い。

 ……いや、それならまだ運が良いのか。

 もし運が悪い場合、転がった馬車に巻き込まれてその重量によって潰されて死んでいるかもしれないのだから。


「分かったわ。じゃあ、レイはそっちをお願いね」

「任せろ。この程度の相手、もう慣れたよ」


 今までレイは結構な数の穢れを殺してきた。

 基本的に穢れは単純な行動しかせず、そうである以上はレイもまたそれに合わせて攻撃すればいい。

 ボブの一件を考えると、完全に安心出来るといった訳でもないのだが。

 とにかく今はひたすらに穢れを殺せばいいだけだ。


「任せるわね」

「グルゥ!」


 レイの言葉に、ニールセンとセトがそれぞれ返事をして、馬車に近付いていく。

 そんな一人と一匹を見送ったレイは、穢れが向かってきている方に駆け出す。

 やがてその視線の先に数匹の黒い円球が見えて、レイはミスティリングの中からデスサイズを引き抜くのだった。






「セト、ニールセン、どんな具合だ?」


 あっさりと……本当にあっさりと、既に作業に近い流れで黒い円球を殺したレイは、転がった馬車の近くにいたセトとニールセンに声を掛ける。

 馬車の中にいる者は、まだ外に出てはいない。

 セトとニールセンでは、馬車を元の状態にしても、扉を開けて中にいる者達を連れ出すといった真似は出来ないのだろう。

 ただし、救助の方で何も進んでいない訳ではない。

 馬車から少し離れた場所には、御者と思しき男が地面に寝ていた。

 微かに胸が動いているのを見る限り、生きているのは間違いないだろう。


(運が良いな)


 馬車が転がって御者台から吹き飛ばされたのに、怪我らしい怪我はない。

 服の上からなので怪我をしている場所が見えないだけかもしれないが。


「馬車の中にいる人達はレイがどうにかしてくれない? 私とセトだとちょっと難しいのよ」

「俺がか? 分かった。いつまでもこのままにしておく訳にもいかないし。……出来るだけ早く終わらせたいんだが、そういう訳にもいかないだろうな」


 レイにしてみれば、この馬車に乗ってる相手は恐らく貴族だ。

 そうである以上、ここで助けて終わりという訳にはいかないだろう。

 最低限、野営地まで連れていく必要がある。あるのだが……


(馬車は使えないしな)


 改めて倒れた馬車を確認すると、やはりそこには予想通り車軸の一部が消失していた。

 それがどのようになってそうなったのか……予想するのは難しい話ではない。

 やはり黒い円球に車軸で接触したのだろう。

 それによって黒い円球は攻撃をされたと認識し、馬車を追った。

 そして車軸を破壊された馬車は走り続けることが出来なくなって、今のような状況になったのだろう。

 馬車の車体や外側、もしくは車輪といった場所ならともかく、何故車軸のような場所が黒い円球と接触したのかはレイにも分からなかったが。


「分かった、任せろ。まずは馬車を元の状態に戻すぞ。……セト、そっちから押してくれ」

「グルゥ!」


 レイの言葉にセトは喉を鳴らして馬車の裏側に向かう。

 レイもまた馬車に手を伸ばし……そして徐々にだが馬車が動き、元の状態に戻る。

 ただし、車輪の一部が破損している分、馬車はバランスを崩して右後ろ側が沈む。


「っと。……さて、どうなってるんだろうな」


 呟きつつ、扉を開けようとするレイ。

 だが、扉を引っ張っても扉が開く様子はない。


「歪んだか? しょうがないか」


 車軸が壊れたことにより、馬車が一体何回転したのかはレイにも分からない。

 だが……とレイは馬車を、正確には馬車の前方、馬が繋がれている部分を見る。

 そこで二頭の馬が倒れていた。

 ピクリともしていないのを見れば、死んでいるのは明らかだ。

 馬でさえ、死ぬような激しい動きで馬車が転がったのだから、扉が歪んで開かなくなるくらいのことはそうおかしなことではない。


「けど……強引にでも、開けさせて貰う!」


 叫び、レイはその言葉通り強引に馬車の扉を開く。

 メリ、メキメキメキといったような音と共に、馬車の扉が開いていく。

 それは扉を開くというよりも、馬車の扉を毟り取るといった表現の方が正しい。

 もしその光景を見ている者がいれば、驚きに目を見開くか、冒険者だから……いや、レイだからということで納得するか。

 ともあれ、無事に馬車から扉を毟り取ることに成功する。

 扉を毟り取ることを、無事と表現してもいいのかどうかは微妙なところだが。


「中には……三人か。一人は多分護衛だな」


 毟り取った扉のあった場所から中を覗くレイが、そう言う。

 貴族と思しき二十代程の若い男女が一人ずつに、護衛と思しき中年の男が一人。

 三人全員が気絶していた。


「奇跡って奴か?」


 骨折を含めて怪我をしているのは間違いないが、それでも言ってみればその程度だ。

 怪我人はいるが、死人はいない。

 幸運に幸運が重なった結果が、今の奇跡とでも呼ぶべき状況なのだろう。


「大丈夫なの?」

「ああ、全員生きている。ただ、問題なのはこの三人……いや、御者も入れると四人だけど、この四人をどうするのかが問題だな」


 これが一人くらいなら、もしくは生きているのが一人だけなら、レイにも対処出来た。

 体長三mオーバーのセトである以上、その背にはレイ以外にも乗せることが出来るのだから。

 しかし、その数が四人となると話は違ってくる。

 もしくは馬車が動くのなら、馬を外してセトに馬車を牽かせるといったことも出来たかもしれないが、生憎と馬車は車軸が破壊されており、使い物にならない。

 そうなるとレイとしてはこの状況でどうすればいいのか迷うことになる。


(確実なのは、野営地から人を連れてくることか。人がいれば、この四人を運ぶことも出来るし。馬車は……俺がミスティリングに収納でもしておけばいいか。馬も)


 壊れた馬車をこのままにしておくことは、止めておいた方がいいというのがレイの予想だった。

 明日にでもやってくるだろう補給の馬車がここを通るのに苦労するだろうし、それを抜きにしてもトレントの森に棲息するモンスターが興味を持ってちょっかいを出す可能性が高い。

 馬の死体にいたっては、そのまま残して置けばモンスターや動物の餌とされるだろう。

 そういう意味でも、ここに置いておく訳にはいかなかった。


「しょうがないわね。私が野営地に行って人を呼んでくるわよ」

「いいのか?」


 レイとしては、勿論ニールセンに野営地に行って貰うのが一番いい。

 速度ということならセトの方が速いのだが、セトは言葉を理解しても喋ることは出来ない。

 そんなセトと比べると、普通に言葉で意思疎通出来るニールセンが野営地に行ってくれるのは、レイとしても助かる。

 あるいはレイが野営地に行くという選択肢もあったのだが、その場合はセトとニールセンで馬車に乗っていた面々を守る必要がある。

 守るだけなら、セトとニールセンでどうにかなるかもしれないものの、もし気絶している面々が気が付いた時、そこにセトとニールセンがいたらどうなるか。

 もしくは妖精について知らない者なら、ニールセンがそのような相手の前に出るのを嫌がる可能性もあった。

 そうなると、残るのはセトだけになる。

 勿論、セトはギルムにおいてマスコット的な存在と認識されているものの、それを気絶している者達が知ってるかどうかは微妙なところだ。

 もしくは、ギルム以外からやって来たのなら、最悪の場合セトを見てショック死する可能性も否定は出来ない。

 そういう意味では、やはりこうしてニールセンが野営地に行ってくれるというのは、レイにとってはありがたかった。

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