3224話

「レイ、ちょっといいか?」


 ミスリルの結界を改めて展開した後、マジックテントの側でセトと共にゆっくりしていたレイは、その声を聞いて顔を上げる。

 声を発した人物は、フラット。

 この野営地を任されている人物だった。


「どうした? フラットがこうして俺のところに来るということは、何か問題でもあったか?」

「実は、リザードマンが来ていてな。ちょっとレイに来て欲しいと言ってるんだが、構わないか?」

「リザードマンが? 一体俺に何の用件だ? ゾゾが来たって訳じゃなさそうだけど」


 レイに忠誠を誓っているゾゾだけに、もしレイに用件があるのならフラットを通してではなく、ゾゾが直接レイに会いに来てもおかしくはない。

 そのようなことではないとなると、ゾゾ以外のリザードマンがレイに何か用件があってきたということになる。


「どうする? もし忙しいのなら断ってもいいけど。……忙しくはなさそうだけどな」


 フラットが見る限り、レイはセトに寄り掛かってモンスター図鑑を見ているだけだ。

 モンスター図鑑を読むのに忙しいと言えるかもしれないが、レイのことだからそういう言い訳はしないだろうというのがフラットの予想であり……


「そうだな。今は特に何かやることがある訳でもないし、ちょっと行ってみるか。ニールセンはどうする?」


 え? と、フラットはレイがニールセンの名前を呼んだことに驚く。

 勿論、何かあった時……具体的には穢れが現れた時にすぐ知らせられるように、レイの側にニールセンがいないといけないというのは知っていたが、見たところレイの側にニールセンはいなかった。

 だとすれば、近くにある木に隠れているのだろうと思っていたのだ。

 そんな中でセトの毛の中から顔を出したニールセンの姿は、フラットを驚かせるのに十分だった。


「レイやセトが行くなら、私も行くわよ。一体何があったのか気になるし。……何よ?」


 ニールセンの最後の言葉は、フラットに向けられたものだ。

 昼寝をしていたので寝起きということもあり、ニールセンの機嫌は決してよくはないのだろう。


「いや、何でもない。じゃあ、生誕の塔の方についてはよろしく頼むぞ」


 このままここにいれば、ニールセンに絡まれる、もしくは妙な悪戯でもされると思ったのか、フラットはレイに短くそう言うとその場を立ち去る。

 もしくは、仕事が忙しいのか。

 基本的に穢れが出て来ない限りは特に何かやることもないレイだったが、そんなレイとは違い、野営地を纏めているフラットは細々とした仕事がそれなりにある。

 ……それでも、ダスカーの仕事量とは比べものにならないくらいに楽なのだが。


「ニールセン、あまりフラットを苛めるなよ。いや、フラットに限らず、他の連中もだが」

「別にそういうつもりはないわ。けど、あの人達の中には色々と……ねぇ? 分かるでしょう?」

「気持ちは分かるけど、フラットは違うだろう?」


 野営地にいる冒険者の中には、妖精好きな者も多い。

 そのような者は、妖精のニールセンを見れば近付いてくる。

 そしてニールセンに過剰に構ってくるのだ。

 これが適当に構うくらいなら、ニールセンもそこまで気にするようなことはないだろう。

 だが、妖精好きの者達は過剰に構ってくる。

 それこそニールセンが鬱陶しいと思うくらいに。

 ニールセンにしてみれば、その件には色々と思うところがあってもおかしくはなかった。


「ふん、それより、いつまでもこうしてる訳にはいかないでしょ? じゃあ、そろそろ行きましょうよ。ほら、早く」


 あからさまに話を誤魔化そうとしているニールセンだったが、レイもこれ以上この件で突っ込んでもニールセンの機嫌を悪くするだけだというのは分かっていたので、素直にその言葉に頷く。

 リザードマン達が、一体何故自分を呼んでいるのかといった疑問を解決したかったのも、その判断基準の一つとなったのだが。


(さて、一体何があったんだろうな。俺に関係する何かなら、他のリザードマンじゃなくてゾゾが知らせに来てもおかしくはないだろうし)


 そんな風に考えつつ、マジックテントをミスティリングに収納し、簡単に後片付けをすませるとセトとニールセンと共に生誕の塔に向かうのだった。






「おう……これはまた、随分と予想外な……」


 目の前の光景に、レイはそんな声を漏らす。

 これが例えば、何らかのモンスターの襲撃があったといったようなことなら、レイもそこまで驚くようなことはなかっただろう。

 寧ろリザードマン達の多くは戦士である以上、そういうものかと納得すらしていた筈だ。

 以前のように戦闘訓練に付き合って欲しいといったようなことであれば、レイも素直に納得出来ただろう。

 だが……現在レイの目の前にあるのは……


「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……」


 元気よく泣いている、赤ん坊だった。

 それも人間の赤ん坊。

 生まれてからそれなりに時間は経っているように見えるが、それも正しいのかどうかは、生憎とレイにも分からない。

 ただこうして見ている限りでは、元気一杯といった様子に見えることだろう。


「赤ん坊……? 何故ここに?」


 これが赤ん坊は赤ん坊でも、リザードマンの赤ん坊なら生誕の塔にある卵から生まれたばかりなのだろうと予想することは出来る。

 だが、ここにいるのは紛れもなく人間の赤ん坊だった。

 あるいは獣人の赤ん坊の可能性もあったが、レイが見たところでは耳や毛のような場所に獣人の特徴はない。

 だとすれば、やはりレイの目の前にいる赤ん坊は人間の赤ん坊であるのは間違いなかった。


「レイ殿、来てくれたか」


 人間の赤ん坊をあやしていたリザードマンが、そう言いながら赤ん坊を連れてレイに近付いてくる。

 基本的にリザードマンは強者に敬意を示す。

 そういう意味では、ゾゾ以外のリザードマン達にとってもレイは尊敬の対象となるのは間違いなかった。


「うわ、可愛いわね。……ちょっとうるさいけど」


 レイの右肩に立っていたニールセンは、自分の方に近付いてくる赤ん坊を手にしたリザードマンを見て、そう言う。

 あるいはその赤ん坊を見て、自分が妖精好きの者達の可愛がられる理由も理解出来たのか、数秒だけ不機嫌そうな表情を浮かべたが、それはすぐに消えた。


「この赤ん坊はどうしたんだ? まさかどこかから誘拐してきたとか、そういうことはないよな?」


 念の為といったように尋ねるレイに対し、赤ん坊を抱いていたリザードマンは慌てたように何度も頷く。

 もしこのまま自分が黙ってしまったら、それは自分がこの赤ん坊をどこかから誘拐してきたと決めつけられてしまうと思ったのだろう。

 実際、もしリザードマンが黙っていれば、すぐにそのように決めつけるといった真似はしなくても、怪しいと思うくらいのことはしていた筈だ。


「空から落ちてきた」

「……は?」


 レイは一瞬、リザードマンが何を言ってるのか分からず、そのまま上を見る。

 そこにはただ青空が広がっており、リザードマンが一体何を言ってるのか理解出来なかった。


「空から落ちてきた」


 レイの言葉に、再度そう告げるリザードマン。

 この状況で嘘を言うとは、レイにも思えない。

 だからといって、空から落ちてきたというのをどう認識しろというのか。


(まさか、赤ん坊が本当に空を飛んでいるとかじゃないよな? だとすれば、考えられるのは……モンスター?)


 レイ達がいる場所は、トレントの森だ。

 そのような場所で赤ん坊が空から降ってきたというようなことになれば、現状において考えられるのは、モンスター……もしくはモンスターではなく、鳥か何かがどこかから連れ去ってきた赤ん坊を何らかの理由で落としたのではないか。


「その赤ん坊は普通に落ちてきたのか? それをお前が受け止める感じで?」

「そのようなことになる。何とか受け止めることが出来たのは幸運だった」


 リザードマンのその言葉に、なるほどと理解する。

 やはり自分の予想は正しかったのかと。


「赤ん坊が落ちてきた時、空に鳥か何らかのモンスターはいなかったか?」


 一応といった様子で尋ねるレイだったが、リザードマンは残念ながら首を横に振る。


「いや、そのようなことはない。もしかしたらいたかもしれないが、俺が見た時はいなかった」

「……そうか。そうなると、この赤ん坊をどうするかが問題だな。それを俺に聞く為に呼んだのか?」

「そうだ。人間の赤ん坊をどうすればいいのか分からないので、仲間に頼んでレイを呼んで貰った」

「モンスターが現れたということで俺を呼んだのならともかく、赤ん坊が落ちてきた件で俺を呼ばれてもな。この赤ん坊をどうしろと?」


 これが、あるいは日本なら行方不明になった赤ん坊を警察に届けるなり、ネットやTVで迷子の赤ん坊を預かっていると大々的に、それこそ全国どころか全世界に知らせることも出来るだろう。

 しかし、このエルジィンにおいてはTVやネットの環境といったものは発展していない。

 そうなると、それこそチラシで赤ん坊の親を捜すくらいしか出来ない。

 それでも見つかる可能性は限りなく低く、場合によっては孤児院に預けるといった選択をする必要もあるだろう。

 そんな訳で、今の状況ではどうしようもないのは間違いない。


「せめてギルムの赤ん坊ならいいんだが。……どこか他の場所から連れて来たとなると、親を見つけるのはまず無理だろうな」


 これが地面を移動するモンスターや動物なら、そんなに離れた場所まで移動する可能性は低い。

 もっとも、その場合は恐らく赤ん坊はもう喰い殺されていただろうが。

 そういう意味では、空を飛ぶモンスターか鳥に誘拐されてまだ幸運だったのだろう。

 ……親から引き離されて、トレントの森までやって来たことを幸運だと思えるかどうかは微妙なところだったが。


「そうかもしれん。……それで、どうすればいい?」

「どうすればいいと聞かれても……」


 モンスターの倒し方で頼られてたのなら、レイもそれに対応することは出来る。

 しかし、空から落ちてきた赤ん坊をどうすればいいのかと言われて、それにどう対処すればいいのかはレイも即座に判断は出来なかった。


「取りあえず俺に聞くよりもフラットに聞いた方がいいと思う」


 人間の赤ん坊をどうにかして欲しいと言われても、レイにそんな経験はない。

 日本にいた頃に親戚が子供を産んだ時に見に行ったりしたくらいしか経験がなかった。

 これがあるいは、人の赤ん坊ではなく動物の赤ん坊であったり、モンスターの赤ん坊であったりするのなら、まだ何とか出来たかもしれないが。


「では、この赤ん坊はレイに預けてもいいのか?」

「……そうだな。俺が連れていった方がいいか」


 レイとしては、自分が赤ん坊に構うのは気が進まない。

 とはいえ、リザードマンに人間の赤ん坊を任せるというのも、万が一を考えると怖かった。

 赤ん坊という意味では、生誕の塔にある卵から孵った子供達もいるのだが、人間の赤ん坊とリザードマンの赤ん坊を一緒に出来る筈もない。

 面倒を見ている者にそのつもりがなくても、リザードマンの赤ん坊が平気でも人間の赤ん坊ではそうではない……そんなことが普通にあるのだ。

 だからこそ、レイとしてはこの赤ん坊を自分が連れていった方が面倒はないと判断していた。


「では、頼む」


 レイが引き受けると、赤ん坊はすぐレイに渡される。


「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」


 リザードマンから渡された赤ん坊は、レイに抱かれたことによって一際激しく泣く。


「おい、漏らしたとかじゃないよな? ……ないか」


 使い捨てのおむつといったような便利なものは、この世界にはない。

 いや、もしかしたらあるのかもしれないが、少なくてもレイが知ってる限りギルムには存在しない。


「今更だけど、この赤ん坊……もしかして結構良いところの家の子供なんじゃないか?」


 赤ん坊の肌着はかなり品質のいい布だ。

 シルクのような手触り……とまではいかないが、赤ん坊に少しでも負担がないようにと作られた肌着なのは間違いない。


「ふむ、そうなのか? この世界の赤ん坊に触れたのはこれが初めてだったので、これが普通なのかと思ったのだが」

「いやまぁ、そんな風に思うのは納得出来るけど。取りあえず違う。……とにかく、この子供をどうするのかはフラットに聞くしかないか。もしかしたら……本当にもしかしたらだが、フラットが、もしくは野営地にいる冒険者の誰かがこの子供がどこの家の子供なのか知ってるかもしれないし」


 そう言うものの、レイも自分の言葉の通りになるとは思えない。

 その可能性は恐ろしく低いだろうという予想は出来る。

 だが……それでも、もしかしたら。万が一にも。

 そんな期待を込めて、そう告げるのだった。

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