3156話

「じゃあ、行ってくる。……取りあえずニールセンを送り出しても真っ直ぐ妖精郷に行くってことはない。一度はここに戻ってくるから安心してくれ」


 早朝、ニールセンを連れてギルムに行こうとしているレイを見送りに来たフラットは、その言葉に安堵する。

 だが、すぐに自分が安堵したというのを隠すように、真剣な表情を浮かべた。


「レイがいてくれれば助かるが、いなければどうにもならない訳じゃない。それは今までの経験からでも理解出来るだろう?」

「レイ様、お気を付けて」


 フラットの言葉に被せるように、ゾゾがレイに向かってそう言い、一礼する。

 そんなゾゾにフラットが何か言いたそうにするものの、ゾゾの邪魔をすると後が怖いとでも思ったのか、レイと話す順番を譲る。


「さっきも言ったように、ニールセンが出発したら、一度はここに戻ってくるんだ。今はそこまで気にする必要はないと思うんだがな」

「いえ、それでもレイ様のことですので、何かあるかもしれませんし」

「ぷっ」


 ゾゾの言葉に思わず吹き出したのは、フラット。

 まさかレイに強い忠誠心を持っているゾゾの口から、そんな言葉が出るとは思ってもいなかったのだろう。

 そんなフラットに不満そうな視線を向けるレイだったが、実際にそれを言葉にしたりはしない。

 レイも自分がトラブルに巻き込まれやすいというのは自覚しているのだ。

 それこそトラブルの女神に愛されているのでは? と思うくらいには。

 また、それだけではなく自分からトラブルに関わることも多い。

 それだけにフラットに対して不満を抱いていても、それを口にすることは出来なかったのだろう。


「ねーねー、レイ。早く行こうよ。いつまでもここにいる訳にもいかないでしょ?」


 不満そうな様子でセトの頭の上に立っていたニールセンがそう言う。

 とはいえ、これはイエロと一緒に他の妖精郷に行くのを楽しみにしているから、早くギルムに行こうと言ってるのではない。

 マリーナの家に用意されているだろう、朝食を目当てにしてのものだ。

 本来なら、ニールセンは自分とイエロだけで他の妖精郷や、穢れの関係者の拠点に行くのは気が進んでいなかった。

 しかし、今はそれよりもマリーナの作った朝食の方に意識が向いているのだ。

 目の前の存在に興味津々で、それ以外について忘れているのは、妖精らしいところだろう。

 楽観的というか、とにかく目の前の楽しいことを優先するのだ。

 とはいえ、今回に限ってそんな妖精の性格……いや、性質は悪くない方向に向いている。

 もしニールセンがマリーナの朝食に心を奪われてなければ、それなりに不安を抱いていた筈だからだ。

 えてして、そのような不安というのは自分だけで抱え込んでいると、知らないうちに大きくなっていく。

 そのような状況になっていないのだから、ニールセンにとって決して悪い話ではなかった。


「そうだな。いつまでもマリーナを待たせる訳にもいかないし、そろそろ行くよ」

「そ、そうだな。うん。待たせると色々と面倒なことになりそうだし、そうした方がいい」


 ニールセンとレイの言葉を聞いたフラットは、躊躇なくそう告げる。

 フラットもギルムのギルドでは優秀な冒険者と認められており、それだけにギルドマスターだったマリーナのことも知っていた。

 それだけに、マリーナに対して上位の存在と思っている。

 そんなフラットにしてみれば、レイがマリーナを自分のパーティに入れた……どころか、男女の関係にあるという噂を聞いて、ある意味でレイに尊敬の念を抱いてしまう。

 マリーナは女の艶を強烈に感じさせる美人なのは間違いないのだが、それを考えてもフラットは自分がレイの立場になりたいとは思わない。

 勿論、それはあくまでもフラットの認識で、中にはマリーナを元ギルドマスターと知っていても、その美貌を自分のものにしたいと思っている者もいるのだが。


「そうか。じゃあ、そろそろ行くよ」


 レイはフラットがいきなり態度を変えたことに疑問を抱いたものの、ここで時間を潰すといった真似をするとギルムに到着するのがそれだけ遅くなるので、それ以上は何も言わなかった。


「ああ、気を付けてくれ」

「レイ様、お気を付けて」


 フラットはともかく、ゾゾは先程と全く同じ言葉を口にする。

 それだけ俺って信用ないのか?

 そう思うレイだったが、自分の今までの行動を考えると反論が難しいのは間違いない。


「セト」

「グルゥ!」


 レイの言葉に、ニールセンを頭に乗せたセトはレイの側までやって来る。

 レイはそんなセトの背に跨がり……そしてセトは数歩の助走をすると翼を羽ばたかせて空に駆け上がるのだった。






 トレントの森を出発して数分、既にセトの姿はギルムの上空にあった。

 当然ながらマリーナの家の周辺にいる者達は、空を飛ぶセトの存在に気が付いてはいるのだろう。

 だが、レイはそれを全く気にしていない。

 何しろ今回はマリーナの家から出る予定がないのだから。

 自分達の姿を見るだけなら、思う存分見てもいい。

 そんな気持ちを抱いていた

 そんなレイの考えを理解したのか、セトは嬉しそうに喉を鳴らしながらマリーナの家に向かって降下していく。

 急速に近付いてくる地面。

 普通ならその降下速度に悲鳴を上げてもおかしくはない。

 しかし、セトに乗ることの多いレイは勿論、いざとなったら自分で飛べるニールセンもその降下速度に怖がるようなことはなかった。

 そして地面に近付いたところで、セトは翼を羽ばたかせて速度を殺す。

 ただし、いつもより大分上の方で速度を殺したのは、庭で食事の準備をしている光景が見えたからだろう。

 もしいつも通り、本当に地面に着地する直前にセトが翼を羽ばたかせていた場合、それは間違いなく食事に砂やゴミが降り掛かったりする。

 マリーナが作ってくれた食事にそのような真似は、セトとして絶対に出来なかった。


「グルゥ!」


 ふわり、と地面に着地したセトは、食事の準備を終えてレイ達が来るのを待っていた面々に向かい、挨拶代わりに喉を鳴らす。


「あら、少し遅かったわね」


 マリーナがセトの背から降りたレイに向かってそう声を掛ける。

 とはいえ、口では文句を言ってるものの、その表情に怒りの色はない。


「出発する時に色々とあってな」

「そうよ。フラットとかいうのがレイとずっと話してたの!」

「いや、おい」


 レイの言葉に繋げるように言うニールセンに突っ込むレイ。

 フラットと話していたのは事実だが、別にそこまで長い時間話していた訳でもないし、フラット以外にゾゾもいた。

 なのに、何故ここでフラットの名前だけ出すのかと思ったレイだったが、ここで余計なことを言えば更にフラットが面倒なことになるかもしれないと思って、その件には触れないように口を開く。


「それよりも、朝食の用意は? 結構楽しみにしてたんだけど」

「ふふっ、きちんと用意してあるわよ。久しぶりにレイと一緒に食事が出来るんですもの。少し早起きして美味しい料理を作ったわ」


 そう言うマリーナはテーブルの上を見る。

 そこには様々な料理が用意されていた。

 あくまでも朝食なので、夕食の時のようにガッツリとしたものではないが、それでも朝食として考えればかなり豪華な料理の数々。

 特にパンは焼きたてなのか、まだ湯気が上がっている。


「うわ、凄いわね」


 テーブルの料理を見たニールセンの口から、素直な驚きの声が上がる。

 美味い料理を期待していたものの、まさかここまでの料理が出てくるというのはニールセンにとっても予想外だったのだろう。


「そう言って貰えて嬉しいわ。セトの分も用意してあるから、しっかりと食べてちょうだい」


 マリーナは早速イエロと遊んでいるセトを見て、そう言う。

 レイはその言葉を聞きながら、椅子に座る。


「レイ、穢れの様子はどう?」


 そんなレイに真っ先に声を掛けてきたのは、ヴィヘラだ。

 戦闘狂のヴィヘラにしてみれば、穢れという未知の存在と戦えるのは羨ましいのだろう。

 しかし、魔法を使えるレイやエレーナと違い、ヴィヘラは基本的に近接戦闘を行う以上、穢れとの相性は悪い。

 レイにしてみれば、穢れはその性質が厄介ではあるものの、純粋に個人の能力として考えた場合はそこまで強い訳ではない。

 プログラム……それこそ本当に簡単なプログラムをされたロボットか何かといった印象だった。

 それだけに、もしヴィヘラが穢れと戦えたとしても戦闘狂のヴィヘラが満足出来る戦闘になるとは思えない。

 それはヴィヘラも分かっているのだが、隣の芝生は青いといったところなのだろう。

 自分が戦えないからこそ、穢れと戦ってみたいと余計に思っているのだ。


「相変わらずだな。人のいる場所に転移してやってくるから、油断は出来ない。ただ、俺の魔法を使って捕らえたら餓死するのは確認した。今はダスカー様に頼んでギルムの錬金術師達に結界のマジックアイテムを作って貰おうとしている。それが出来れば、穢れを倒すことも出来るようになる」

「それは……倒すことが出来るかもしれないけど、私からみたらあまり面白い話じゃないわね」


 残念そうな様子のヴィヘラ。

 そんなヴィヘラの様子に、エレーナは呆れた様子で口を開く。


「ヴィヘラにとっては穢れと戦うのは楽しみかもしれないが、他の人にしてみればまともに戦うというのは考えていないのだろう。楽に倒せるのなら、それはそれで問題はない筈だ」

「エレーナの場合は実際に穢れと戦ったから、そんな風に言えるんだと思うけど。……まぁ、今はいいわ。とにかく朝食を食べましょう。レイもいつまでも時間に余裕がある訳じゃないでしょう?」

「そうだな。ニールセンも出来るだけ早く出発する必要があるし。じゃあ、食べるか。マリーナが作ってくれた料理が冷めたら、悲惨だし」

「あら、そう言ってくれるのは嬉しいわね。じゃあ、食べましょうか」


 マリーナがそう言うと、早速食事が始まる。

 エレーナ、マリーナ、ヴィヘラ、アーラ、ビューネ。

 レイ以外にもこれだけの面々が揃っており、テーブルの上にはニールセンも立っている。

 大勢での食事という意味では、野営地でもそうだ。

 ……いや、純粋に人数を考えれば、野営地での食事はマリーナの家でするよりも人数は多いだろう。

 だが、それでもレイにしてみればこうして仲間の皆と一緒の食事の方が美味いと思える。

 この辺りは、純粋にどれだけ他の面々に気を許しているかどうかといったところなのだろう。


「このパン、見た感じだと焼きたてに見えたけど、本当に焼きたてなんだな。温かい……っていうか、熱いし」


 レイが手に取ったパンは、かなり熱い。

 そういうのに弱い者なら、熱くて持てなかったりしてもおかしくはないだろう。

 だが、レイの身体はそういうのには強い耐性がある。

 ……勿論、ある程度熱いのが平気だからといって、火の中に手を突っ込んだりしようものなら普通に火傷をするのだが。

 それでもこの程度のパンを素手で持つのは全く問題がない。

 サクリとした食感と共に、最初に口の中に広がるのは香ばしさ。

 次に柔らかさと仄かな甘みが広がり……


「美味い」


 しみじみとレイは呟く。

 それこそこのパンの美味さは、料理とかそういうのがなくても、このパンだけで十分に美味いと思える味だった。

 だからといって料理を食わない訳ではないのだが。


「ふふっ、喜んで貰えて何よりね。白パンと黒パンのどちらにしようか迷ったんだけど、白パンで正解だったみたいね」

「別に黒パンも嫌いって訳じゃないぞ?」


 そう言うレイの言葉は嘘でも何でもない。

 ただ、日本にいる時に食べる機会が多かったのは白パンだったのも事実。

 本格的なパン屋にいけば黒パンの類も売っていたかもしれないが、幸か不幸かレイが黒パンを食べる機会はなかった。

 もっとも、白パンもそうだが、日本にいる時に食べていたのとは微妙に違う。

 この辺は素材やパンを焼く手順も日本にいた時に食べたパンと違っていたりするのだろう。

 とはいえ、レイとしてはそのくらいの違いは特に気にならない。

 マリーナが焼いてくれたパンは十分に美味いし、パン屋で売ってるパンも特に違和感がなく美味いと感じられるのだから。


「そう? でも、私は白パンの方が好みなのよね」

「私はどちらも嫌いではないが……マリーナの作ってくれるこのパンは好きだ」

「そうね。マリーナのパンは不思議と美味しいのよね。何か隠し味とかそういうのがあるのかしら?」


 エレーナとヴィヘラがそれぞれ尋ねるが、マリーナは笑みを浮かべるだけで答えない。

 この辺はあくまでもマリーナ独自の何らかの秘訣があるということなのだろう。

 そんな様子を見ながら、レイはスープの味を楽しむのだった。

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