3116話

 赤いスライムは少し名残惜しそうな様子――あくまでもレイからそう見えただけだが――を見せつつも、湖の中に帰っていった。

 水狼もそんな赤いスライムの様子を見ると、満足した様子で喉を鳴らしつつ、そのまま湖の中に戻ろうとし……だが、不意にその動きを止めた。


「あれ? どうしたんですかね?」


 レイの隣にいた研究者の男は、てっきり水狼はこのまま湖の中に戻ると思っていたのだろう。

 だが、何故か突然その動きを止めたのだ。

 不思議に思い、自分よりも水狼と親しいレイに尋ねる。

 しかし、レイもまた何故そのようなことになっているのかは分からない。

 水狼が何かを探すかのように、あるいは調べるかのように、鼻を上に向けていた。

 これが水狼ではなく、本当の狼や犬であれば、恐らく匂いを嗅いでいるのだろうというのは予想出来る。

 しかし、水狼はあくまでも水で狼の身体が作られているだけだ。

 そんな水狼が、匂いを嗅ぐといった真似が出来るのかどうか、レイには疑問だ。

 もっとも、それを言うのなら身体が水で構成されている水狼が鳴き声を上げる時点でおかしい。

 魔力によるものだろうとレイは予想するが、そのようなことが出来るのなら匂いを嗅ぐといった真似も普通に出来てもおかしくはなかった


「セト、何か分かるか?」

「グルゥ? ……グルルルルゥ」


 自分には分からない何かを水狼が感じているのなら、自分より感覚の鋭いセトも何かを感じているのではないか。

 そのように思って尋ねるレイだったが、セトはそんなレイの言葉に首を横に振る。

 それはつまり、セトですら感じられない何かを水狼は感じているということを意味していた。


「ワオオオオオン!」


 と、不意に水狼がレイを見て鳴き声を上げる。……いや、それは寧ろ吠えるという表現の方が正しいだろう。


(何だ? 敵か? 考えられるとすれば……)


 嫌な予感を抱くレイ。

 セトが感じていない何かを水狼が感じたとしても、それが具体的に何なのかというのは分からない。

 分からないが、今の状況を考えると何かが起きてもおかしくはないのだ。

 するとそんなレイの考えが切っ掛けだったかのように、少し離れた場所にいたニールセンが急いでレイに向かって飛んでくる。

 そんなニールセンの様子を見たレイは、すぐに何が起きたのかを理解する。


「レイ! 長から……」

「穢れか。どこだ?」


 ニールセンが慌てた様子だった状況で、既にその理由を察していたレイは、言葉を遮るようにして尋ねる。

 言葉を遮られたニールセンは、それを気にした様子もなく……いや、気にしているような余裕もなく、と表現するのが正しいのかもしれないが、とにかく言葉を続ける。


「野営地とこの湖の間辺り!」

「また、随分とピンポイントに。……いや、だから水狼が」


 何故水狼が穢れの存在を察知出来たのかは、レイにも分からない。

 分からないが、それでも今の状況を考えるとそのことに拘っているような余裕はない。

 すぐ行動に出ようとし……ここで、研究者の男をどうするべきかと迷う。

 自分と一緒に来るとなれば、当然だがそれは穢れと近付くということを意味する。

 穢れの研究をする為にここに来ている以上、その穢れがどのようにして動くのか、それを間近で見たいと思ってもおかしくはない。

 レイが魔法で捕獲すると言っても、それで大人しく聞くかどうかは微妙なところだ。

 レイの魔法によって生み出された炎獄に捕らえられる前、自由な状況でどのようになっているのかを、しっかりと自分の目で確認したい。

 そのように思っても、おかしくはなかった。


「どうする?」

「一緒に行きます」


 研究者の男は、レイの予想通りの言葉を返してくる。

 ただ一つレイの予想と違ったのは、一瞬の躊躇もなく即座に自分も一緒に行くと口にしたことだ。

 迷う様子がないのは、それだけ自分の研究心に忠実なのだろう。


(駄目だな)


 レイとしては、出来ればこの場にいて欲しかった。

 あるいは野営地に戻って欲しいと思った。

 だが、今のこの返事を聞く限り、とてもではないが自分の指示に従うとは思わない。

 それこそ、レイがここで置いていくといったような行動をした場合、レイがいなくても追ってきそうだと。


(考えてみれば当然か。穢れの研究をする為に野営地にやって来たんだし)


 話している際にはそこまで感じなかったが、この男も明らかに普通ではないのだ。

 そうでなければ、色々な危険を承知の上で野営地にやって来たりはしないだろう。

 そのような真似をするだけの度胸……あるいは無謀さとでも呼ぶべきものが、間違いなくこの男にはあった。


「分かった。ただし、俺と一緒に来る以上は穢れと遭遇して死ぬかもしれないというのは、決して忘れるなよ。もしお前が穢れに襲われるようなことになっても、助けられるかどうかは分からないんだからな」


 一応ということでそう言うレイだったが、男はそんなレイの言葉に当然だといった様子で頷く。

 そんな男の様子に、レイは少しだけ感心した。

 恐らくこの男はそれなりに修羅場を潜ってきた経験はあるのだろうと、

 そう判断した以上、ここで無理に置いていく必要もないと判断し、続いてセトとニールセンに視線を向ける。


「行くぞ」


 レイの口から出たのは、短い一言のみ。

 だが、その短い一言だけでこれからどうするべきなのかはセトもニールセンも十分に理解出来た。


「グルゥ!」

「分かったわ」


 レイの短い一言に対応するように、こちらもそれぞれ短く返事をし、レイ達はそのまま野営地のある方に向かって走り出す。


(にしても、今回のは野営地と湖の間って話だったが……誰かいたのか?)


 これは経験則となるが、レイにとって穢れというのは人のいる場所に出るという認識だった。

 それがいきなり湖と野営地の側に姿を現したという報告が来たのだから、それはつまりそこに誰かがいるということに他ならない。

 そんなレイの予想を裏付けるように、レイ達の視線の先から二人の冒険者が姿を現す。


「レイ! やっぱりこっちにいた!」


 レイのいる方に向かって走ってきた冒険者の一人がそう叫ぶ。

 必死になってレイに叫ぶ女の冒険者の横では、男の冒険者が後ろを向いて叫ぶ。


「来た、来た来た来た! レイ、黒い円球がやってきたぞ! 数は三匹!」


 男の言葉通り、森に生えている木々の間から三匹の黒い円球が姿を現す。

 森に生えている木々の枝に触れ、黒い塵として吸収しつつも、二人の冒険者を追う黒い円球。

 ここまで執拗に二人を狙うのは、この二人が黒い円球を攻撃したからなのは明らかだった。


「レイさん、お願いします!」


 レイの側にいた研究者の男は、期待を込めてレイに向かって叫ぶ。

 男にしてみれば、黒い円球が三匹というのは捕らえるのに丁度いいと思ったのだろう。

 実際、レイもそのように思っていた。

 魔法を使って捕らえるのに、三匹というのは丁度いい数だと。

 そう思ったからこそ、レイにしてみれば疑問を抱きもするのだが。

 ちょうど穢れを捕らえることが出来るようになったこのタイミングで、捕らえるのに丁度いい数の穢れが姿を現す。

 これは明らかにレイにとって有利な展開だ。

 一体何がどうなってこうなったのか。

 この状況を素直に受け入れてもいいと思えるようなことはレイには出来ない。

 何らかの理由があってこのような状況になっている……それこそ、穢れを送り込んできている何者かの意思があるのではないかと、そんな風にすら思ってしまう。


(いや、今はそういうのを考えている場合じゃないか。とにかく敵を倒す必要があるのは間違いないんだ。そうである以上、ここで俺が迷っていても意味はない。それどころか、俺が迷えばそれだけ味方が危機になる)


 そう判断すると、レイは走っている二人の冒険者に向かって叫ぶ。


「これから魔法を使うから、そのまま穢れを引き連れて走り回れ!」

「うげぇっ!?」


 まさか自分達が追われているこの状況で、レイが魔法を使うとは思っていなかったのだろう。

 とはいえ、落ち着くことさえ出来れば、この件はそこまで問題ではない。

 敵を攻撃して自分を追わせてレイに魔法で倒して貰うというのが、穢れを倒す際に確立した対処法だったのだから。

 そもそも、黒い円球の移動速度はそう速くはない。

 生誕の塔の護衛を任される冒険者なら、既に存在を十分に理解している穢れを相手に、ここまで動揺するのはレイにとって疑問だった。


(この程度で動揺する奴は、生誕の塔の護衛を任されたりとかはしない筈なんだけどな)


 それだけが、レイにとって純粋に疑問だった。

 とはいえ、今のこの状況でそのようなことを考えていても意味はない。

 既にこのような状況になってしまっている以上、魔法で穢れを焼滅させる……ではなく、炎獄に捕らえて、研究対象とするのが最優先だった。


「あ、ちょっと、危ないわよあれ!」


 デスサイズを手に呪文を唱えようとしたレイだったが、不意にニールセンの叫ぶ声に集中が切れる。

 一体何だ?

 そう思って視線を向けると、そこでは女の冒険者がバランスを崩したところだった。

 普通では有り得ない行動。

 腕利きの冒険者としてギルドに認識されている人物らしからぬ行為。

 だが、ここは街道や街中のようにある程度整備されている地面ではなく、自然そのままの地面だ。

 当然地面は荒れているし、場所によっては穴が空いていたり、石が落ちていたりする。

 バランスを崩した女は、その穴に踏み込みそうになったのだろう。

 そうしてバランスを崩し、それでも転ばなかったのは、それこそギルドに優秀と認められる実力の持ち主だからか。

 それでも危険なのは間違いない。

 黒い円球は移動速度こそそこまで速くないものの、地上を走るのではなく空中を飛んでいる。

 つまり、女のようにバランスを崩すといったことにはならないのだ。


「ちぃっ! こっちだ、こっちに来い! スワンナに手出しはさせねぇっ!」


 男の冒険者が叫びつつ、咄嗟に地面に落ちていた小石を拾い、女……スワンナを追っていた黒い円球に向けて投擲する。

 黒い円球は当然のように自分に攻撃した男に意識を向け、スワンナの存在は既に完全に忘れたかのように行動を始めた。


「あ……」


 何となく、本当に何となくだが、レイは恐らくあの二人が恋人なのだろうと判断する。

 何故湖と野営地の間という中途半端な場所に黒い円球が現れたのか。

 それはつまり、あの二人が逢い引き……という表現が古ければ、デートでもしていたのだろうと。

 これが見張りをしている最中にそのような真似をするのなら、指揮を執っている男にとっても許容は出来ないだろう。

 しかし、野営地にいるということは現在休憩中で、その時間に恋人としての時間を楽しんでも、誰も文句は言えない。

 その結果として、黒い円球に襲われるようなことになったが。


「よし、そのまま黒い円球を女から引き離して俺の方に向かってこい!」


 叫ぶレイの言葉に男は即座に反応する。

 この辺りの即座に決断する力は、生誕の塔の護衛を任せられるだけの実力の持ち主だということだろう。

 男が三匹の黒い円球を引き連れて自分の方に向かってくるのを確認しながら、レイはデスサイズを手に呪文を唱え始める。


『炎よ、我が思いに応えよ。汝は壁、何者をも通すことのない壁にして、それが四方に、そして上下に存在すべきもの。その壁は炎にして炎にあらず。破壊の炎ではなく触れても暖かな気分を抱かせる炎。我が魔力が存在する限り、その炎の壁が消え去ることはない』


 呪文が完成されると同時に、デスサイズの示した方向に炎の壁が生み出され、三匹の黒い円球を囲むかのように、前後左右上下に炎の壁が生み出され……


『炎獄の壁』


 魔法が発動した瞬間、炎の壁は一気に標的となる黒い円球を覆うように移動して炎の檻、炎獄を完成させる。

 そして魔法を発動したことにより、予想はしていたものの魔力が大量にレイの身体から消費される。

 だが、その魔力の大量消費によって、三匹の黒い円球は完全にレイの生み出した炎獄によって捕獲された。

 三匹の黒い円球は、必死になって炎獄から抜け出そうとしていたものの、炎獄に触れても黒い塵になって吸収されることはないし、黒い円球がダメージを受ける様子もない。


「よし。取りあえず無事に捕獲……か」


 レイは炎獄の内部の光景を見て、安堵したように呟く。

 黒い円球にしてみれば、現在自分達が一体どのような状況になっているのか分からないだろう。

 もっとも、レイの認識としては黒い円球を含めた穢れの諸々には自我とかそういうのがないと認識している。

 そういう意味では、自分がどんな状況にあるのかを判断することは出来ないだろう。

 そのように見られつつ、黒い円球は炎獄の中で動き続けるのだった。

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