第5話
「
ティッシュで鼻をかみながらリビングに入るなり、親父に怒鳴られた。
「はぁ?」
その言葉の意味も、遠距離通勤のために、普段ならとっくに家を出ているはずの親父がそこにいることも、すぐには理解できなかった。
「早朝からこのニュースで持ちきりだぞ! 死にたくなかったら家にいるんだ」
「何を言って」
親父がテレビの画面を指し示した。
戦闘機が映し出されている。航空自衛隊の基地が近いこの辺りでは、珍しくも何ともない。テロップが流れると、まさしくその基地のことだとわかった。
「この前の航空祭で、とんでもないウイルスがばら蒔かれたらしい」
「は? ウイルス?」
「パイロットが自首してきたんだ」
「自首って、何だよそれ」
「感染した人間は、自殺したくなるんだそうだ。ウイルスが付着した手で粘膜に触れなければ、問題ないらしいが」
親父が昨夜読んだ小説のあらすじでも語っているのかと思った。
「父さんは航空祭の日もずっと仕事だったからな。遠い会社で助かったよ」
俺の脳はまだ話に追いつけていない。
「お前も感染していないみたいだし、騒ぎが収束するまで、父さんと家の中でじっとしているんだ。いいな」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。ウイルス……? 何だよそれ」
「父さんもにわかには信じがたいが。感染すると、物事を悪いほうに考えすぎて鬱になるらしい」
「は?」
「パイロットの知り合いの研究員が造り出したんだ。この頃は殺人を犯す人間が増えたから、誰もが熟慮できるようになればいいと考えたらしい」
言葉を失った。
本当に小説の中のことみたいではないか。人間を鬱にさせるって、そんなことが可能なのか。
俺はハッと思い当たる。
本田。あいつはどうして唐突に死を選んだ。
この世から逃げ出したくなるほどの悩みを、本当に抱えていたのか? そのウイルスに感染していた可能性はないのか?
「信五。ニュースで知る限り、この辺りの感染者はどんどん増えている。呼気でもうつるのかもしれん。外に出たらだめだ」
親父は厳しい目で言い、またテレビに向き直った。
「でも、幸いなことに、その研究員は抗体ワクチンも同時に開発していたらしいんだ」
「え、本当?」
「警察が押収に成功した。夕方までには準備を整えて、この辺一帯に散布するらしい」
「じゃあ……それで落ち着くのか」
「ただ、その効果がやや強力だと言っている。今度は思慮浅い人間が増加すると、専門家たちが反対しているみたいだ。全滅よりいいだろうに」
そこで、俺はまたくしゃみをした。親父が眉をひそめる。
「風邪か? そういや、風邪を引く人も増えているみたいだな」
「……まさか、これ感染してるんじゃ」
「いや、感染した人間には、そういった症状はまったく出ないらしい」
安堵する一方で、疑問が湧いた。
本田が死んだ日、俺は彼女とずっと同じ教室にいた。話もした。すでに彼女が感染していたのなら、俺はなぜ感染しないんだ。そして、それは俺だけではない。
――――――真中。
ポケットから急いでスマホを取り出す。
十コールほど待ったところで、ようやく「……もしもし?」とかき消えそうな声が届いてきた。
「真中! 無事か?」
「……沢渡」
真中はしゃくり上げ始めた。
「……お父さんも、お母さんも、弟も。死んじゃった」
最悪な事態が、そこでは起きていた。
「……テレビで、外に出ちゃだめだって言うし……先輩のことが心配で電話してるんだけど……出ないの、ずっと」
先輩はきっともう……
宣告するまでもなく、真中はきっともう知っている。
「真中は平気か?」
「うん……沢渡は?」
「俺も大丈夫。待ってろ。今行く」
一方的に通話を終えると、親父が慌てて立ち上がった。
「おい信五、外に出る気じゃないだろうな」
「何も触らなきゃいいんだろ。念のため手袋するし、マスクもするよ」
ティッシュをゴミ箱に放り投げ、玄関へと向かった。靴箱の上の救急箱から、ビニール手袋と抗菌マスクを取り出して装着する。
「信五!」
親父の制止を振りきって、俺は外へ飛び出した。
男手一つで育ててきた俺を、こんなことで失いたくない親父の気持ちはわかる。だけど、その気持ちと同じように、俺だって真中のことが心配なんだ。
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