それは、突然の。
――それは思いもよらず突然だった。
「っ……!」
目についた途端、思わず躯が固まり、心臓が跳ねる。
家のドアを開けると、玄関には絶対にないモノがあった。男性用の革靴である。何故それが
『いきなりそんなことを言われても!』
ハルカの耳に、伯母の声が聞こえる。慌てるようなそれに耳を傾け、次にくるであろう言葉を待つ。
『姉さん、悪かったと思ってるんだ。だから――』
思った通り、男の声が聞こえた。『姉さん』と呼んでいるではないか。これはもう終わりだ。伯母を『姉さん』と呼ぶのは、一人しか思い付かない。予想は、確信へと変わる。
「と、うさん……?」
父親が、いる。自分を捨てた父親が。そう思うと自然と足が竦んだ。
『お前の所為だ!!』
あの時の言葉が甦る。
「っ……」
会いたくない。躯が、心が、全てが拒絶する。勢いよくドアを閉め、踵を返してハルカは走り出した。
◇◆◇◆◇◆
行くあてもなく走り続けて躯がダルイ。最終的には近所の公園のベンチに腰を下ろしている。
荒い息を整えていれば、風が吹き髪を靡かせた。
「なんで……父さんがっ……」
彼は太股に肘を置き、掌を組む。俯く顔は真っ青だった。
「どうして……っ」
微かに躯が震えだす。それは絶対的な恐怖からきたモノである。どう転んでも、あの責める怒声は嫌悪の対象でしかない。
「くそっ……」
震える躯は、言うことを聞いてくれなくて。
「落ち着け……、落ち着け」
軽く瞼を閉じて深呼吸を繰り返す。そうすれば先程より震えが治まった。ぎゅっ、と手を握る。
「今更なにしに来たんだ……?」
ハルカの中に、疑問だけが残った。
◇◆◇◆◇◆
静かな家に、突然の訪問者の姿。
「いきなりそんなことを言われても!」
伯母――
「姉さん、悪かったと思ってるんだ。だから――」
机を挟んで美江子の前にいる男は、頭を下げた。髭を剃り、きっちりとスーツを着こなすその姿は、一見好青年である。
「あの子がどんな思いをしたか、解らないの?」
その問いに、男はなにも言わなかった。いや、言えなかった。どんな思いをしたかなど、解らないから。
「あの子は――ハルカはずっと苦しんでいたのよ……」
男は姉を見詰める。ただ真っ直ぐに。
「――
弟――朱吾を見遣り、口を開く。
「それは……」
「もう一度、よく考えていらっしゃい」
ゆっくりと言い放たれたその言葉を、男はどこか遠くで感じていた。
◇◆◇◆◇◆
「お前の所為だ!!」
吐き捨てるように言葉を紡いだことを、今でも鮮明に覚えている。それは自分の声ではないように感じた。
「お前の所為だ!!」
感情が、どうしても抑えきれなかった。気が付いたら、ハルカの肩を掴み、揺さぶっていた。
「お前の所為で――」
その時の男――朱吾は、妻を失った哀しみでいっぱいだった。
どうして生きているのはこの子なのだ。どうして妻は死んだのだ。――どうして!
「なにをしてるの!?」
姉が来なければ、もっと酷いことをしていただろう。彼女の腕の中で、ハルカはその大きな瞳で朱吾を見詰めている。それは彼を苛立たせるのには十分だった。
爆発した感情では、善悪の区別などはつかない。心の中に留めておくことも、今の彼には難しい。怒りで埋め尽くされた思考での結論は、悪いのは全てこの小さな子供になる。
お前の所為で――!
『お前の所為で、
ありったけに彼はそう叫んだ。そうすれば、目を見開くハルカと目が合う。
「朱吾っ!」
美江子はぎゅっとハルカを抱きしめた。その小さな子供は震えているようだ。
「――っ、るせぇっ」
軽く舌打ちをしながら彼は部屋を出ていく。
「朱吾……」
ポソリと弟の名前を呟く。
小さな彼は、伯母の服を握りしめることしか出来なかった。
◇◆◇◆◇◆
道を歩きながら、朱吾は肩を落とす。
八つ当たりにも程があるだろう。自分は最低なことをした。そう後悔したからこそ、一緒に暮らしたかった。しかし、姉には『もう一度考えてこい』と軽くあしらわれてしまい、今はおじゃんである。
「ハルカ……」
息子の名前を呟き、なにを思ったのか、朱吾は景色に視線をくべる。
「っ――!」
彼は目を見開いた。公園のベンチに人が座っていたからだ。よくよく見ると、その人は――自分が苦しめた息子だった。
◇◆◇◆◇◆
「えっ? ハルカくんが帰ってない?」
友紀は受話器を持ちながら、言葉を発する。
「ミノリっ」
いきなり声を掛けられて躯を竦めるミノリに、彼女は受話器を押さえながら優しく言葉を紡いだ。
「ハルカくんが帰ってないらしいんだけど、ミノリはなにか知らない?」
「ハルカが、帰ってない?」
学校からは一緒に帰ってきた。何時ものように送られ、彼は自分の家に帰った。その後ろ姿をはっきりと見たのだ。――その後は、なにも知らない。自分は『なにも』知らないんだ。
「っ……、オレっ、探してくる」
時刻は午後十時を過ぎている。外は暗いが、今はそんなことはどうでもいい。彼は急いでリビングを出る。
「ミノリっ!? ちょっ、待ちなさいっ」
母親の言葉が、遠くに聞こえる。
靴を履くのももどかしかったが数分の間を置いて玄関を開ければ、闇が目の前に広がっていた。正確にいえば、玄関には明かりが灯っているが、それさえも飲み込もうとするような錯覚さえあった。
「っ……」
どうでもいいと思ったが、やはり怖い。打破するように深呼吸をし、ぎゅっ、と手を握る。
「大丈夫……」
小さく呟いて、一歩を踏み出す。
――今から行くよ。
そうして彼は走り出した。しかし、行き先の見当は全くつかない。
コンビニ、大型書店、駅前通り等を探すが見付からない。やはり闇雲に探すのではダメらしい。道すがら肩で息をしつつ、辺りを見渡す。
「どこにいるんだよ? ――あ」
瞳には公園が映った。そこは小さな公園――公園と呼んでいいのかと疑問はあるが――で、住宅街の外れにある。今のご時世でも時折子供が遊ぶ姿があるが、どこか寂れた雰囲気が醸し出されていた。
「公園……は、探してない……。でも、いるかなぁ……」
出入口に走り寄り、そっと公園に足を踏み入れる。刹那、砂を踏む音が辺りに響いた。
「っあ……!」
出入口近くにあるベンチに、人の姿があった。街灯に照らされて、誰だかはっきり判る。そこには、ハルカが腰を掛けていた。
「ハルカっ」
ミノリはベンチに駆け寄る。
「……ハ、ルカ……?」
沈黙を守る彼の瞳からは光が失われ、虚ろな瞳で出入口の方向を眺めている。なにがあったのだろうか――。
「おい、ハルカ?」
顔の前で手を振ってみれば、気付いたようなのか口を開いた。
「――要らないから、捨てたんだろ?」
「え?」
ミノリは首を傾げる。一体なにを言っているんだろう、と。
「要らないから――俺を捨てたんだろ!?」
彼は叫ぶ。その顔はとても辛そうだ。
「今更一緒に住む? ふざけんな! 俺が何年苦しんだと思ってるんだよ!!」
早口でそうまくし立て、拳を握る。骨が浮き、白く変色していた。
ずっと焼き付いて離れなかったのに。ずっと責められていたのに。今更、水に流すことなど出来ない。
「何年……、苦しんだと……っ」
俯いた顔から、透明な粒が落ちた。彼は――泣いている。そんなハルカをミノリはぎゅっと抱きしめた。
「捨てたりしない」
耳元で優しく言い放つ。誰が捨てるものか。
「オレは、ハルカを捨てないよ。ハルカを必要としているから、捨てたりしない」
彼の髪を優しく撫でる。何度も、何度も。戻ってほしい。笑ってほしい。その願いを込めて。そうする内に、光を失った瞳に光が戻った。
「……ノリ……?」
ミノリの背中に手を回し、きゅっ、と服を握りしめた。
「ミ……ノリ……?」
目の前にいるのは――父親ではなく、大切な人。
「うん」
「ミノリっ」
彼はミノリの胸に顔を埋める。そうして抱きしめる手に力を込めた。
「――が……、来たんだ」
「よく、聞こえない」
「父さんが、来たんだ……」
「ハルカのお父さんが?」
そういえば、と思い出す。ハルカの父親は一度も見たことがなかった。自分を育ててくれているのは伯母で、本当の母親ではない、と言っていた記憶がある。なら――どこにいるのか、と疑問が浮かぶ。
「……前に、『秘密』があるって言ったよな?」
「言ったな」
その言葉に顔を上げて、ハルカは視線を合わせた。
「今から言うことは、聞き流してくれても構わない。でもっ、頼むから嫌いにならないでくれ……。お願いだから、俺から離れないで」
そう言って、また俯いてしまう。涙を拭い、ズボンを握りしめていた。脆く崩れそうな彼が、どうしようもなく愛しい。誰がなんと言おうと、守りたい。そんな庇護欲を駆り立てられる。
「離れないよ」
言い放ち、もう一度抱きしめた。瞬間、躯が跳ね、恐る恐る背中に手が回る。
「俺は――母さんを殺したんだ」
それは、突然の告白だった。
「え? どういう、こと……?」
紡がれた言葉の意味を理解出来ずに、瞬きを繰り返す。反してハルカは、唇を噛みしめた後に重い口をゆっくりと開いた。
「母さんは……、俺を産んで命を落としたんだ」
語る声は震えている。ミノリはもう一度ハルカの頭を撫で、軽く頷く。ゆるく弧を描く手を止め、肩に手を置いた。そうしてまた、語り始める。
「父さんは、母さんを殺した俺を憎んでいる。悪態をつかれ、最終的には捨てられた……。美江子さんは生まれてすぐの俺を引き取り、ここまで育ててくれたんだ」
今度は震えていなかったが、声はどこか小さい。
「捨てたのに……、父さんは一緒に住もうって言ってきた。……なぁ、ミノリ。俺はどうしたらいい?」
ぎゅっ、と抱きしめる腕に力を込める。
「
「感謝?」
揺れる瞳で見据えれば、彼は柔らかい笑みを溢していた。眩しく輝くそれは、暗闇を吹き飛ばしそうだ。
「ハルカを産んでくれたから、オレはハルカと出会えた。だから、『ありがとうございます』って言いたい」
「そ、っか。俺もミノリと出会えたことは感謝してる」
釣られた様に固く笑うが、またもや俯いてしまう。
「お父さんのことはオレが言えたことじゃないけど、ハルカが住みたくなければ住まなくていいと思うよ」
「正直言うと、どうしたらいいか判らないんだ……」
彼の困惑は手に取るように判った。長い間交流を絶ち、そんなことを言われても戸惑うことは当然であろう。反対の立場であっても、理解に苦しむことは目に見えていた。
「じゃあ、二人で考えよう」
「二人、で……?」
俯きながらの問いはか細く、揺れていた。もしかして、忘れているのだろうか。
「ハルカが言ったんだろ? 二人で悩もうってさ」
「……あぁ……」
確かに言った。でもそれは、思い詰めてほしくなかったからである。
「二人で考えよう。オレがいるから、一人で悩むなよ」
もう一度頭を撫でて言葉を紡いだ。伝わる温もりは優しく、胸を打つ。その優しさに溺れそうで、でも溺れたくはなくて。しかし、流されるのは悪くはないのかも知れない。このまま悩んでいても、結論が出るわけではないのだから。
「ミノリ」
「なに――」
見下げたミノリの唇に、ハルカは触れるだけのキスをする。
「なっ、なにっ……!?」
なにをされたのか理解するのに数秒を要した。
「ありがとう、ミノリ」
ポフン、と胸に顔を埋める。
「う、うん……」
恥ずかしげに頷く彼を見ることはなく、腕を回して抱きしめる。
夜の公園。ざわめく木々の音が響く中で、街灯だけが二人を照らしていた。
「ありがとう」
ハルカはミノリの胸の中でそう呟き、小さく笑った。
◇◆◇◆◇◆
「ハルカ、オレも『秘密』をちゃんと話すから。……今っていうのは無理だけど……」
「判ってるよ」
「うん」
ぎゅっと手を繋ぎながら、帰路に着く。
「ミノリ……、俺のこと嫌いになったか?」
無性に怖くなった。あんな話をしたのだ。嫌悪感が芽生えても可笑しくはない。そうなれば、光がなくなってしまう。失うのは怖い。
反して唐突に問われた彼は、握る手に力を込めた。びくりと躯を竦めるハルカを見据える。
「ならないよ」
「本当に?」
「本当に」
不安げな彼に笑い掛ける。嫌いになる必要がどこにあるというのだ。
「嫌いにならないよ」
もう一度言い放つ。闇に溶け込むその声は穏やかで、心地好い。
「大丈夫。オレはずっと傍にいるよ」
「――……うん」
ハルカは目を見開いた。瞬間、繋いだ手を握り返し、小さく頷く。
「ミノリに話せてよかった」
本当によかった。苦しみや辛さが全部消えた訳ではないが、かなり軽くなった。逃げずに聞いてくれたのが、どれ程の救いになっただろう。ミノリには解らないが、それはまた、生きる糧となるのだ。
「……うん……」
ミノリは彼の横顔を見遣り、再度ぎゅっと手を握る。
自分はなに一つハルカのことを判っていなかった。ずっと苦しんでいたんだ。それなのに、気付かなかった。傍にいたのに、判らなかった――。
「ごめんな……」
彼は呟く。なに一つ判ってなくて、ごめん。
「ミノリ」
「えっ? あっ――なに?」
声を掛けられはっとする。慌てて見遣れば、彼は柔らかく笑っていた。
「俺も、ミノリがどんな姿になっても傍にいるからな」
そう言い放ち、ハルカは繋いでいた手を離す。たった今、傍にいると言ったのに。温もりが離れ、少しだけ淋しい。
「ハルカ?」
「家、着いたから」
言葉と共に指を差された方向を見ると、自分の家があった。出ていった時のまま、玄関には明かりが灯っている。
「あ……本当、だ」
「じゃあな」
「っ……、ハルカっ」
頭を撫でて、歩き出そうとしたハルカの制服の裾を掴む。次いで、ぎゅっ、と掴むその手を、やんわりと外された。
「どうした?」
戸惑っているであろう彼を見詰め、口を魚の様に動かす。恥ずかしさに目を泳がせながら。
「……あ、のな……」
もう少しだけ、一緒にいたい。そう言いたいが、口が開かない。口を結んでなにも言えずじまいのミノリの唇を、ハルカは軽く塞いだ。刹那、唇が離れ、頬を軽くつねる。
「な、なに?」
「バカ、そんな顔するなよ。一緒にいたいけど、さすがに遅いだろ?」
困ったように笑う彼を眺めていれば、頬から指が離された。替わりに、背中に腕が回される。
抱きしめるがすぐに離し、彼は自分の家の方向に歩き始めた。『また、明日な』という言葉を残して――。
「明日……、か」
明日になれば、ハルカに会える。それがこんなにも待ち遠しいなんて思ったのは、初めてかも知れない。
浮き立つ心に気が付いて、ミノリは緩く笑みを溢した。
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