夏休み=《は》部活動 ―波瀾―
ミノリは太陽の陽射しを手で遮りながら「眩しい……」と呟く。
夏休みといっても、部活があるので休みとは感じられない。二人が通っている学校は部活動が盛んであり――といっても、主に運動部であるが――、必ずどこかの部活に属していなければならなかった。それならばと、揃って文化系の部活、『新聞部』に入部したのだ。運動部程部活動の日はないが、二週間近くはある。
「木下く~ん」
「……部長……」
部長は女の子――
「なにかいいネタあった?」
「特にはないかな」
「そっか。私はあったよぉ」
マイネタ帳のミニノートを彼の顔の前に翳す。
「なんとっ! タカチャが盲腸で入院したんだって」
タカチャとは、学年主任の先生のことだ。本名は
「ミノリ」
「あ、山並くん」
彼女はハルカに駆け寄れば、キラキラと輝く瞳で彼を見上げた。
「ね、いいネタあった?」
「なにも。けど、強いて挙げるならこれかな」
手に持っていたメモ帳を千切り、目前の部長にメモ用紙を渡す。ミノリは部長の手を覗き込んだ。そのメモ用紙には綺麗な字で『高杉先生盲腸で入院』と書かれていた。
「あははははっ」
部長は声を出して笑い、肩を震わせながらメモ用紙を折り畳む。
「私と一緒だぁ」
「あ、本当に?」
「うん。ほらっ」
彼女はマイネタ帳を見せた。同じ様なことが丸文字で書かれている。
「本当だ……」
「やっぱ、噂になってるんだね。タカチャが入院したこと」
「高杉先生は学年主任だし、それなりに人望があるからな」
「よし。じゃあ、このネタでいこうか」
三人は校舎へと踵を返し、部室へと足を運ぶ。新聞部はミノリとハルカ、馨部長を含めて十五人。――しかし部活に出ているのは、五人足らずだ。後は名ばかりの幽霊部員であった。
「あ、部長」
部室を開けると、待機中であろう部員がいた。
「黒崎さん。ただいまー」
同じクラスであり、同じ部員の
「……」
「ハルカ?」
ミノリは無言で佇む彼の制服の裾を引っ張った。ハルカははっとしたようにミノリに視線を合わせる。
「え……? あぁ、なに?」
「どうかしたのか?」
「いや、なんもない」
何故だろう。胸騒ぎがする。
「なにもないなら、早く作ろう」
ハルカの手を取り、部室に入る。後ろを通り過ぎるミノリに彼女はポソリと呟いた。
「ムカつく……」
ポニーテールが、開いている窓から入ってきた風に揺らいだ。
――気に入らない。消え入りそうな声で、彼女はそう言い放った。
「黒崎さんなにか言った?」
「ううん、なにも言ってないよ」
ミノリが声を掛けるが、紗夜は笑顔でそれをかわす。にこにこと笑顔の彼女には、それ以上なにも言えなかった。
「黒崎さん、悪いんだけどこれコピーしてきてくれないかな?」
訪れた沈黙を破るように、部長は机上に置いてあったプリントを紗夜に渡す。それは校内新聞の最新版である。部室にあるノートパソコンでレイアウトをし、プリントアウトしたモノをモノクロコピーする。それがこの学校の校内新聞だ。
「判りました。何部コピーしてきたらいいですかね?」
「ん~、何時もの通りにお願いしまーす」
馨部長は機械オンチだった。彼女の持つ携帯は、惜しいことにあまり活用されていない。
そのプリントを手に、紗夜はハルカに声を掛ける。
「ハルカっ、一緒に行かない?」
「行かないから」
誘いに数秒の間も置かずハルカは即答する。それは拒否であった。
「じゃあ私が行こうかな」
「部長は機械オンチだからダメだろ。……行くなら、オレが行くよ」
すっ、とミノリは小さく手を挙げる。紗夜の視線はすぐさま彼に映った。邪魔をするなというように。
「ミノリが行くなら俺も行く」
「じゃあ一緒に行こうか」
仲睦まじいその姿に紗夜は小さく舌打ちをした。
「……黒崎?」
「なぁに?」
彼女はハルカを見上げる。そこにあるのは、何時もと変わらない姿。ふわりと柔らかく笑う顔。
「いや……」
紗夜から視線を外して、ドアノブの窪みに手を添えてそれを開ける。
「行こうか」
三人は部室から出て印刷室へと歩き出す。印刷室には業務用コピー機が三台あった。
「暑いのに元気だよなぁ」
廊下の窓からは、運動部に所属している人達が練習をしている風景が見えた。
「そうだな」
「でも、暑い中頑張ってるからスゴイよな」
「そうだな」
先程からハルカはじっと紗夜を見ている。このままでは相槌もままらないだろう。
ふぅ、とミノリは短いため息を漏らした。空気がピリピリしているのは気のせいじゃない。
「あー、のな、ハルカ」
「ん?」
「オレ、部長に言いたいことあったから戻るな」
「部長に? 今じゃないとダメなのか?」
「うん、まぁね。すぐ戻ってくるから、先に行ってて」
「……判った」
ミノリの慌てた様子に渋々承諾するが、行かせたくない、とも思ってしまう。
「ミノリ……っ」
繋がれた手が離れ、ハルカは振り返った。離れた温もりは、遠くに行ってしまったような感覚で好かない。
まだ手を伸ばせば届く距離にいる。腕を掴んで引き寄せたい。しかし――それは叶わなかった。
「早く、行こう」
紗夜が彼の腕を掴んだからだ。
「……あぁ」
仕方がない、今は我慢しよう。ミノリが戻ってくるまでの我慢だ。
◇◆◇◆◇◆
「どうしよう……」
彼は短いため息を吐く。嘘をついてしまった。『部長に言いたいことがある』とはまっかな嘘だ。ピリピリした空気の中にいたくなかったから。
「あとで言えばいいか……」
本当のことは後で言おう。ハルカならきっと許してくれるだろう。
「ごめんなさい」
嘘をついてごめんなさい。どうしても、いたくなかったんだ。
「みぃつけたぁ」
意気消沈のところ、いきなり背後から腕を掴まれる。
「っ……、なっ!?」
思わず躯を竦め、即座に後ろを振り返った。
「探しちゃったよぉ」
「え? 部長っ!?」
自分の腕を掴んだのは馨部長だった。
「あのね、木下くんに頼みたいことがあるんだぁ」
「頼みたいこと?」
それはなにかと思い、反芻した。
◇◆◇◆◇◆
「ごめんね、木下くん」
「ううん、大丈夫」
ミノリの手には段ボールがあった。それは生徒会室から持ってきた代物だ。
他愛もない話をしながら二人は階段を上がる。
「山並くんは木下くんの頼みじゃないと聞いてくれないからね。本当に愛されてるねぇ」
「なっ、ななななに言ってっ!」
「顔真っ赤だよ」
口に手を添えているが、ふふふと笑いが漏れていた。
「そっ……、それはいいとして、この中にはなにが入ってるの?」
重そうに見えて実はすごく軽い。大きさの割りに、中身はないみたいだ。
「秘密ー」
「秘密って……」
「開けてからのお楽しみってことだよ!」
きっと彼女は中身をきちんと知っていて、それでも楽しんでいるのだろう。だからこそ落としたらダメだろうと気を引き締め直す。
最後の一段を上がろうとした時に、前方から来た人が彼女にぶつかった。
「え……っ?」
肩同士が触れただけだが、思いの外、強かったらしい。バランスが崩れる。
「あぶなっ!」
「わ、わわっ」
かなり強引だったので、今度はミノリがバランスを崩すことになった。足が階段から離れ、宙に浮く。
「――っ!」
落ちると判った。しかし、段ボールは死守しなければならない。これは大切なモノだから。ぎゅっ、とそれを握りしめ、目を閉じる。
「――っの、アホっ!!」
声が聞こえたと思ったら、続いて鈍い音がする。
「いっ……」
それなりの衝撃がくるかと思えば、あまり痛くはない。これはどういうことだろうか。
「え? あれっ?」
恐る恐る瞼を上げれば、目の前は真っ白。ボタンと胸ポケットがあるので、これはカッターシャツだろうか。
「気をつけろよな」
頭上から声が聞こえたので見上げると、そこにはハルカの顔があった。どうやら衝撃は殆んど彼が受けていたらしい。その証拠に、眉を寄せている。
「ハルカっ!?」
「大丈夫か?」
「え? あ、う、うん、大丈夫だからっ!」
ミノリは急いでハルカの上から退く。何時までも上に乗っていては、重たいだけだ。
「ならよかった」
ゆっくりと起き上がり、くしゃりとミノリの頭を撫でた。
「ハルカはっ!? 怪我……、とかない?」
「ちょっと背中打っただけだ」
「あ……」
眉を寄せていたのだから、怪我をしていない筈がない。今も痛みを堪えているであろう。
俯きつつ彼の手首を掴み、言葉を絞り出す。
「ほ、保健室、行こう?」
「いい。メンドクサイから」
やんわりと手を外して、彼はそんなことを言う。
「でも、腫れたりしたら大変だろっ? だからっ……」
ハルカはじっとミノリを見る。また泣き出しそうな、辛そうな顔をしている。
「判った」
立ち上がり彼の手を取った。
「え?」
「保健室、連れてってくれるんだろ?」
「あ、うん」
「じゃあ、段ボールは私が持っていくね」
ひょこっ、と部長が現れた。何事もなかったかのように、にこにこと笑い二人を見ている。
彼女が無事でなによりなのと、ハルカが怪我をしたことで忘れていたモノ――。
「段ボール……? あっ! 段ボールっ」
辺りを見渡せば、目当ての段ボールは変形もせずに転がっていた。
「よかった」
段ボールは無事のようで、胸を撫で下ろす。
「お前な、段ボールの心配より、自分の心配をしろ」
「これ生徒会から持ってきた物だし、扱いには気を付けないといけないだろ?」
よいしょ、と声をあげながら段ボールを持ち上げる。
「ほら、早く保健室行こう?」
問えば、ハルカは無言で階段を下り始めた。
「ちょっ、えっ、ハルカっ」
「あ、木下くんっ! 段ボールは……」
声を掛けるが、ミノリはハルカの後を追いかけてしまう。
「まぁ、いっか。邪魔したら悪いしね」
部長は見えなくなった二人にヒラヒラと手を振った。
◇◆◇◆◇◆
消毒薬の匂い。――保健室の匂いだ。
「怒ってるよな?」
「…………別に」
段ボールは机の上に置き、ミノリは棚から湿布を探す。
「別にってなぁ、完璧に――あった」
怒ってるだろ、とは言わずに湿布が入った箱を取り出した。そうして歩み寄りつつ箱を開け、チャック式の包装から湿布を取り出しながら項垂れる。
「怪我、ごめんな……」
「謝るなよ。ミノリは悪くない」
言って、くしゃりと彼の頭を撫でる。柔らかな髪は触り心地がよく、なにかある度に――なにもなくても触れてしまう。
「ほら、早く湿布貼ってくれ」
「う、うん」
彼はカッターシャツのボタンを外し制服をはだけさせ、丸イスを回転させて後ろを向く。
「ハルカの背中は大きいよな」
「なに言ってんだよ。これぐらい普通だぞ」
「オレと比べるとデカイじゃんか」
比べる対象が自分では、一回り近く違う気がする。気に入らない訳ではなく、寧ろ、羨ましい。
「ミノリが細いんだよ。食ってるのか?」
「食ってるよ」
「ならいいけどな」
ミノリは湿布のフィルムを剥がし、ハルカの背中に貼った。
「っ……」
冷たさと痛みで顔を歪ませるが、ミノリには見えない。
「痛くない?」
「大丈夫だ」
なにかを悟ったように声を掛けるミノリに、ハルカは気丈に『大丈夫』と返した。心配はかけさせたくないから。
「もう一枚、貼ってくれ。左側な」
「判った」
言われた通り反対側にも貼れば、制服を着直す。その少しの動作だけでも見惚れてしまうのは、彼を想っているからだろう。
丸イスを回転させて、ハルカはミノリを見詰めた。
「なに?」
「ミノリに怪我がなくてよかった」
「……でも、ハルカが怪我をした。なんで、助けたんだよ……?」
「なんでって、ミノリだから。黒崎がコピーしてくれて暇になったから、様子を見に行こうとしたんだ。そしたらお前落ちてるから焦ったわ。助けなきゃ、怪我するだろ? 俺は怪我してもどうってことないし」
「よ、よくないだろっ! オレの所為で……っ」
イスから立ち上がり、ミノリの頬に手を添えた。辛そうな顔をしている彼に、優しく触れる。
「ミノリの所為じゃないよ」
徐に頬にある手を離して、彼の腕を掴む。瞬間躯が強張ったが、気付かない振りをして言葉を紡ぐ。
「これは俺が悪い。ちゃんと受け止めたらよかったんだから」
腕を引き寄せれば、胸にミノリの顔が埋まる。彼にはトクトクと速く脈打つ鼓動が伝わり、少なからず緊張していることが解る。
「オレが、無理に部長を助けたから……部長だって怪我して……」
「ミノリは優しいからな」
「優しくない」
優しさがあるのなら、怪我をするのは、自分だけでいい。他の人が――大切な人が怪我をするのは、見ていたくはないのだ。
「そっか」
ハルカは小さく笑いながら、くしゃりと頭を撫でる。
「でも、今度は無茶するなよ。この話はもう終わりだ」
「うん……、判った」
終わりと言わなければ、何時までもループすると感じた。そうしなければ、ミノリは自分を責め続ける。自分を追い詰めて、そして心が破壊されていく。見たくはないから、終わらせる。
「ミノリ……」
「なに?」
「前に、言ったよな? 『隠している秘密がある』って」
「言ったよ」
「まだ、教えてくれないのか?」
「ごめん……な。まだ、言えない」
きゅっ、とハルカの制服を握りしめた。額を胸に宛がい、もう一度呟く。
「ごめん」
――言えないんだ。怖いから。
「……俺も、ミノリに隠している秘密がある」
「えっ?」
ミノリは目を見開いて、彼を見上げた。
「誰も――ミノリも知らない。俺が心の奥底に隠している秘密」
伏し目がちに言い放つその姿は弱々しく、今にも崩れてしまいそうで怖かった。ミノリは背中に腕を回して力を込めて抱きしめる。
「痛くて、辛くて、苦しい……」
解放されたい。でも、解放されない。
「ミノリがいたから、忘れられたんだ」
じっと彼を見詰め、ハルカは淋しげに微笑う。
『秘密』――がある。自分の中に、奥底に隠している『秘密』。同じだ。同じように『秘密』を背負って生きてきたらしい。
「楽になりたい」
重荷を取りたい。いや、全てを知ってほしい。
「だから――」
――聞いてくれますか?
しかしその言葉は、届かなかった。開け放たれたドアの音に掻き消されたのだ。
「二人とも――のわっ!」
二人の瞳に部長の姿が映る。彼女は固まっていた。
「お邪魔しましたぁ」
「なにか用なんだろ?」
抱きしめていたミノリを離し、ハルカは踵を返した部長に声を掛けた。ともすれば、後ろ姿が竦む。
「いやぁ、邪魔するつもりはないからっ」
部長はゆっくりと言い放ちながら振り返った。泳ぐ目が焦りを思わせる。
「邪魔じゃないから」
「……黒崎さんがコピーしてきてくれたから、張り替えに行こうって、言いたかったんだけど……」
先程と同じようにゆっくりと、だがはっきりと言い放つ。
「判った。行こう」
「あ、でも山並くんは怪我してるし……」
部長は言い淀む。ハルカを見遣り顎に手を添えた。
「部長も足に青アザ出来てる」
「これは木下くんが助けてくれた時に出来たやつだよ」
「ごめん……なさい」
「大丈夫だよぉ。それより、さっきは助けてくれてありがとね」
明るく言うが、膝に出来た青アザは痛いほどに生々しい。綺麗な足が台無しではないか。
「でも……部長とハルカに怪我をさせたんだよ……」
俯きながら、ミノリは言い放つ。怪我をさせた愚かさが、躯を巡る。
「そんなに自分を責めないで。怪我は何時かは直るからねっ。それよりも、私は木下くんが助けてくれたことが嬉しかったなぁ」
ポンポン、とミノリの肩を軽く叩きながら、彼女は先程と変わらずに明るい声で言う。
「嬉しい?」
「うん。嬉しかった」
部長は大きく頷いて柔らかく笑う。
「ありがとう、木下くん」
どうして、お礼を言うのだろう。
「ミノリ」
ハルカはぽん、と軽くミノリの頭に手を乗せた。彼は眉間に皺を寄せ、なにかを考えている。
「ほら、行こう」
頭上から離した手はミノリの手を取った。そうしてぎゅっと握る。今度は離さない。
はっと気付いたミノリを半ば引き摺るように三人は保健室を後にした。
◇◆◇◆◇◆
『私は木下くんが助けてくれたことが嬉しかったなぁ』
部長の言葉が、ミノリの頭を巡る。自分の所為で怪我をしたのに。それなのに、嬉しいなんて可笑しな話だ。
「ミノリ?」
先程から俯いているミノリにハルカは声を掛ける。だがそれには気付かずに、紗夜がコピーしたプリントを持ちながら、彼は短くため息を吐いた。
全くもって解らない。助けたといっても、怪我をさせた相手なのだ。『嬉しい』なんて思う筈がない。思わないでほしい。
「どうした?」
「え?」
はっ、と我に返ると、ハルカの顔が近くにあった。
「あ……、な、なに?」
「いや……なにかあるなら言えよ」
ミノリの頭を撫で、手にあるプリントの束から一枚抜き取る。
「次は五組だな」
「うん」
クラスの掲示板に、プリントを『重ね張り』する。――それが今の仕事だ。
「ハルカ」
「なに?」
『怪我をして、嬉しいと思う?』と聞きたいが、喉につっかえるだけで言葉にはならない。基より聞いたとしても、返ってくる答えは『嬉しい』だろう。彼も部長と変わらない優しさの持ち主なのだから。
「っ――……やっぱ、なんでもねぇ」
考えて、ふるふると首を横に振る。
「そう」
ハルカは後ろのドアを開け、廊下に出ようと足を踏み出した。
「あ、ハルカっ、前っ」
「前?」
前方を向く前に鈍い音がし、躯に衝撃が走る。
「きゃっ!」
高い声が聞こえた為に、誰かにぶつかったのが判った。
「ってぇ……」
ハルカが眉を顰めると同時に、高い声の主がミノリを見遣った。
「誰だよ――って……黒崎、か」
「ご、ごめんね、ハルカ」
紗夜は俯きながら謝る。前髪から覗く瞳には、ハルカは映ってはいない。
「別に、大丈夫だから。こっちこそ悪かった」
詫びれば、彼女は顔を上げた。瞳は真っ直ぐにミノリを捉えている。
「ねぇ、ハルカ」
「なに?」
「わたし、木下と『二人』で話がしたい」
「黒崎とミノリが二人で?」
「そうだよ。二人、でね」
「……それは」
それはどういう意味だ? しかしそれは言葉には出来ず、替わりにまた胸がざわつく。モヤモヤとしたなにかが渦巻いた。
「ミノリは、どうしたい?」
振り返り、ミノリを見詰める。絞り出した声は小さい気がした。
「……いいよ。話そうか」
彼は泣きそうな顔付きで、それでも無理矢理笑顔を作る。
「ハルカにばっか頼るのも悪いし……」
本当はすごく怖い。ぎゅっ、とプリントを握りしめ、どうにか震えを抑えていた。
「無理しなくていいんだぞ?」
「無理じゃない。話せれば……、話せるようになれば、友紀さんとも話せるようになるかも知れないから……」
彼は必死だった。今のミノリは、母親と話したい気持ちで動いていたのだ。
「――判ったよ」
察したようで、彼は折れる。そうしてポンポン、と頭を軽く撫でた。
「なにかあったら、すぐ言えよ?」
「判った」
ミノリの手の中にあるプリントを取り上げ、ハルカは教室から出ていった。
「お話、しましょうか」
彼が隣のクラスに入るのを見送った後、紗夜は不気味ににやりと笑い、後ろのドアを勢いよく閉めた。
「どんな話から始めようかなぁ」
ゆっくりと彼女はミノリに近付く。
◇◆◇◆◇◆
「くそ……」
教室に入るなり、ハルカは前方のドアに凭れた。
嫌な胸騒ぎ。本当は二人でいさせたくない。でも、ミノリが望んだのだ。それを無下には出来ない。
気になる。気になってしょうがない。しかし、覗きはよくない。行くなよ、と何度も自分に言い聞かせる。それしか出来ない自分が歯痒い。
◇◆◇◆◇◆
「木下は、どうしてハルカの傍にいるの?」
「え?」
『どうして?』と問われ、首を傾げる。どうしてだろう。何時も一緒にいたから、今更判らない。
「……判ら、ない」
彼女から視線を逸らし、言い放つ。
「判らない……?」
紗夜はぴくりと眉を動かした。
「判らない訳ないじゃないっ! 一緒にいるならそれなりの理由がある筈よっ」
怒鳴り声に、ミノリは躯を竦める。出来る限りの罵声は浴びたくないのに、それは叶わないらしい。
「そ、んなこと、言われても……」
「理由なんてないって?」
その言葉を肯定するように首を縦に振った。
「理由がないならハルカと離れてよ。わたしがハルカの傍にいる」
「それは……出来ない」
今度は首を左右に振る。
「はぁ? 理由もなく一緒にいるなんてズルくない?」
「……でもオレはハルカといたい」
ミノリはぎゅっ、と両手を握りしめる。力を込めすぎた為に、白い肌が更に白くなった。
「辛い時も、苦しい時も、哀しい時も、何時も一緒にいてくれた。オレは……、オレにはハルカが全てなんだ……っ!」
紗夜を見詰めて言い放つ。だが視線はすぐに泳いでしまう。
「ごめんなさい、黒崎さん。……ハルカとは離れない」
離れたくない、と再び紡ぐ。そうすれば、紗夜は眉を吊り上げる。
「ムカつくっ!!」
声を荒げながら、彼女は持っていたプリントをミノリに投げ付けた。ヒラヒラと舞うプリントはゆっくりと床に落ちる。
「っ!?」
「なんでアンタなのよ!」
その声に、彼の心臓が跳ねた。これは――誰だ?
「アンタはハルカを縛ってる。お荷物なんだよ」
彼女は細い手で、ミノリの胸を押す。その勢いで一、二歩後退した。その間も彼の頭の中ではぐるぐると思考が巡っていた。
――ダレダ? カノジョハ――ダレダ?
これは、一緒だ――――。
そう理解すれば、躯から力が抜けた。瞬時に引き戻される。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい?」
「ごめんなさい」
気持ち悪い――。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
気持ち悪い。気持ち悪い。
「ちょ……、ちょっと」
様子の可笑しいミノリに恐る恐る声を掛けるが、ふるふると首を振るだけだった。
「ごめんなさい」
ふらつく足で彼女の横を通り抜け、ドアに近付く。
「ハルカ……っ」
力の入らない手で無理矢理ドアを開け、ミノリは廊下を歩き出す。
気持ち悪い。吐きそうだ。
「っ……」
徐々に正気に戻り、言われた言葉を思い出した。強くきつい口調。
『アンタはハルカを縛ってる。お荷物なんだよ』
――彼女はハルカを想っている。だから、邪魔な自分を消したいんだ。好きな人には自分を見てほしいから。
お荷物なんて、言われなくても判ってる。
「……判ってる……よ……」
判ってる。一緒にいても、ハルカを苦しめるだけ。判ってるよ、そんなことぐらい。判ってる上で、それでも一緒にいたい。こんな自分でも、『必要』としてくれるから。逆に『必要』としているから――。だから、離れたくないんだ。
「黒崎さん……ごめんなさい」
気持ち悪い。気持ち悪い。
「ぐっ……」
掌で口を押さえれば、荒く熱い息が掌に当たる。目頭が熱くなる。
「……は……」
吐きたい。吐いて楽になりたい。
壁に手を付き、ゆっくりと歩く。
「……っ」
もうすぐ手洗い場だ。そこまで行けば、楽になれる。一歩、また一歩と歩き、どうにか手洗い場まで来れた。
床に膝を付いて蛇口を回し水を出せば、流れ出る水の音が辺りに響く。
「は……っ」
息を吐き出しつつ咳き込むと汚物が出てきた。水に流れる汚物を、涙で霞む目で見詰める。吐き出して一旦軽くはなったが、気持ち悪さが再度這い上がってきた。
「っ……ぐっ」
ゲホゲホとまた咳き込み、肩で息をする。全部吐き出した後に口を何回も濯ぎ、手の甲で唇を拭う。
「話せなかった……な」
ポソリと呟いた後に、強く唇を噛みしめて、腕で目を覆った。
結局、フラッシュバックを起こしてダメになる。ちゃんと話したいのに。
「なんで、出来ないんだよぉ」
ポロポロと涙が溢れて止まらない。伝い落ちた涙は、水と共に排水口へと流れていく。
話したいのに、でもそれが出来ない。怖くなって相手の顔が見られなくなるし、呂律もおかしくなってしまう。――なにも出来なくなる。
「嫌だ……」
なにも出来ない自分が心底嫌になる。
「ミノリ……?」
声が聞こえ、躯が強張った。
「どうした?」
優しい声が聞こえる。この声の主は判らない訳がない。
「……ハル、カ……」
腕を退かし、涙でグシャグシャになった顔でハルカを見遣る。
「――なにか……、あったのか?」
ハルカは一瞬目を見開いたが、涙で目が霞むミノリには判らなかった。横に座り込み、ミノリの背中を擦る。
「黒崎になにかされた?」
「違う、よ……。思い出して……、気持ち悪くなっただけ……」
言って、ぐしぐしと制服の袖で涙を拭う。
「話せるかも、知れないって思ったけど……っ、でも、なにも出来なかった……」
拭ったのに、また涙が溢れてきた。ぼやけた視界には滲むハルカが映る。
「ダメだなぁ……。友紀さんと話がしたいのに……全然ダメだ」
頑張ると、決めたのに。気持ちを伝えたいのに。――これでは全然伝わらない。
「話がしたいよぉ……」
『友紀さん』ではなく、『お母さん』と呼びたい。他愛もない話がしたい。
「ミノリ」
ハルカは親指の腹で、優しく涙を拭う。
「大丈夫だ。友紀さんはちゃんと判ってるよ」
「本、当に……?」
「あぁ」
軽く頷きながら彼はミノリの頭を優しく撫でた。どうか泣き止んでほしい。
「…………うん、そうだな」
再度ぐしぐしと袖で涙を拭い、小さく笑う。
ハルカの言葉は、ミノリに安心感を与えるのだ。
「……ミノリ。黒崎、なにか言ってたか?」
「特には、なにも……」
『なにも』じゃない。紗夜には『ハルカと離れろ』と言われた。だが、彼は嘘をついた。
「なにも言われてないよ」
もう一度なにもないと言い放つ。なにか言われたことを言うと、ハルカは怒るだろう。彼女の想いは砕かれる。そんなことをする権利はない。だから、嘘をついたのだ。
「ならいい」
ミノリの頭をもう一度軽く撫でて、彼は立ち上がる。
「顔、洗えよ」
手洗い場を指差されながら促されたミノリはゆっくりと立ち上がり、流れ出る水に手を出した。掌に溜まる水を眺める。溢れる水は端から零れて流れていく。
「は……」
息を吸い込み、バシャバシャと顔を洗う。
「ほら、ハンカチ」
「う……」
手探りでハンカチを取って顔を拭き、目を開ける。視界は明るくなり、ブレがない。
「……あ、コレ洗って返すから」
言いながら蛇口を閉め、ハンカチをズボンのポケットにしまおうと後ろにもっていく。が、手首を掴まれハンカチを取られた。
「え、ハルカ?」
「たった今返してもらったよ。それより、ミノリ――お前、髪の毛張り付いてる」
ハンカチをポケットへと押し込んだ後に長い指が頬に触れ、張り付いているであろう髪を軽く払った。
「取れた」
そう言い放ち、嬉しそうに笑う。
「――~~っ、嫌っ」
声と共にハルカの腕が引っ張られた。
「触らないでよっ」
「黒、崎さん……」
ハルカの後ろに、紗夜がいた。眉を吊り上げた彼女は、言い放つ。
「ハルカに、触らないでっ」
きゅっ、と彼の腕を握る。
「――っ!」
当の本人は一瞬で触れているその手を払い除け、彼女が触れた部分を擦った。
「触るな……っ」
「ハルカ?」
「俺に……触れるな」
振り返り、紗夜を見遣る。自分のことを知りもしないのに、触れてほしくない。上辺だけで判断をし、『好き』か『嫌い』かを決める――。そんな
「なんで触っちゃいけないの?」
彼女は疑問を投げ掛ける。
「教えてよ、ハルカ」
「俺が誰に触れさせるか触れさせないか、逆に、触れるか触れないかは俺の勝手だ」
「勝手? じゃあ、わたしがハルカに触れるのも勝手だよね」
言い放ちながら、すっ、と手を伸ばす。
「やめろっ」
彼は伸びてきた手首を即座に掴んだ。
「なんで? なんでなのっ?!」
彼女は叫ぶ。どうして伝わらないんだろう。なんで、わたしじゃないの――。
「なんで? ――そんなのは、簡単だ。黒崎だから」
「わたしだからいけないって言うの!?」
「黒崎だけじゃない。他の人でも無理だ」
自分を自分に留めてくれるのは、一人だけ。他の人では意味を成さない。
「無理……?」
「俺が大切に思うのは――ミノリだけなんだ」
真剣な顔で彼は彼女を見詰める。それは今までで一番想いが伝わってきた。――自分には向かない心。
「っ……どうして? わたしはこんなにもハルカが好きなのにっ、どうして判ってくれないの?」
紗夜の目から大粒の涙が零れた。
「どうして……っ」
掴んでいた彼女の細い手が、力なくずり落ちた。
「く、黒崎さん?」
ミノリは紗夜に近付く。大丈夫なのかと心配したからである。
「アンタがっ、アンタが、いるから……っ」
目前で立ち止まったミノリを涙目で睨み付ける。彼の躯が強張るが、いい気味だと思った。
「アンタなんかハルカに相応しくないっ!」
紗夜は腹の底から叫んだ。濁った感情は抑えられない。
「……誰が決めた?」
ハルカの冷たい声が、紗夜の耳に届く。突き刺さるように冷めた声。彼女にとってそれは、悪魔の声に聞こえてしまう。
「そ、れは……」
「なにも知らないのに、勝手なことを言うなっ!!」
「――っ、ハルカっ」
ミノリは紗夜の前に立つ。彼女を庇う形になり、気に入らないのかハルカの眉がぴくりと動いた。
「そんなこと言うなよっ! ハルカだって、黒崎さんのことなにも知らないだろっ!?」
彼は珍しく声を荒げる。彼女の想いを知ってほしい。彼女を、拒絶しないでほしい。拒絶は痛いから。その想いでハルカを見据えた。
「なんで……、庇うんだよ?」
「だって、黒崎さん泣いてるから」
「ミノリは泣いてたら、誰でも庇うのか?」
想いは届かずに、彼の低い声がミノリの耳を支配する。怒らせたらしく酷く居心地が悪い。だが、今は気にせずに拳を握る。
「そ、う、いう……訳じゃない。ただ、黒崎さんはハルカのことが好きなんだよ」
「見れば判る」
好きだから、自分だけを見てほしい。好きだから、傍にいたい。好きだから、誰も近付けたくない。――痛いほど、その気持ちが判る。
「だから……っ、その気持ちだけは判ってくれ」
「判ったとしても、俺にはどうしようも出来ない」
今度は優しい声が降ってくる。それでも強い意志があった。振り向けない――振り向かないと。
「ごめんな、黒崎。黒崎の気持ちに応えることは出来ないんだ。でも、想ってくれてありがとう」
紗夜は目尻に涙を溜めながら、ハルカを見詰める。刹那、彼女は無言でその涙を溢れさせた。
「………………………………ご、めんなさい」
消え入りそうな声で言い放つ。溢れる涙を手で拭い、すんと鼻を鳴らす。
「……酷い、ことっ……言って、ごめんなさい…………」
俯きながら、紗夜は言う。涙は拭う手を伝い、端から腕へと流れていく。
「嫌いにならないで……っ」
彼女は嗚咽を漏らしながら、か細い声で言った。小さな願いは小さく聞こえるが、それでも届いたのだ。
「ならないよ」
ハルカは言い放つ。素直に謝ったのだから、悪いようには出来ない。
彼女が漏らした『嫌いにならないで』という思いは、彼の中にもある気持ちだった。ミノリに嫌われたらどうしよう、と何時も思っているのだ。だから、肯定しか選択はない。
彼の言葉を聞き、彼女は小さく微笑いながら「ありがとう……」と紡いだ。
綻ぶ顔は涙に濡れているが、想いの丈をぶつけた為に、心はどこか晴れているようで温かいような気がした。
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