2章-第14話
「ピアス穴、空けておけば良かったかな」
わたしが言うと、
わたしも苦笑する。確かにそういう校則はあるが、すっかり有名無実化しているのが実情だ。あの品行方正を裏返したような存在である一雷でさえ、注意されたところを見たことがない。
「クウコ。準備はいいか、行くぞ」
「はあい。風邪をひかないように少し厚着したよ」
蒸し暑さと雨の冷たさが同居するこの季節は、服装に困ることが多い。わたしは動きやすいジーンズを穿き、薄手の長袖シャツの上に春物のジャケットを重ねて着た。さらにレインコートを羽織る。
一雷から貰った魔除けのピアス──先月彼から貰ったものと同じ、彼の幻術効果を高めるピアスを小さな袋に入れて、ポケットに突っ込んだ。ピアス穴を空けておけば良かったというのは、このピアスがあるからである。
「風邪の心配より命の心配しろよ」
「してるよ……一雷はその格好で行くの?」
「いや、ちゃんと化けるぜ」
彼はそう言ってから、狸の姿になった。わたしは彼をリュックに詰め込み、それを背負う。
「じゃあ
「気をつけて。なにかあったら狸を生贄にして逃げてくるのですよ」
わたしは頷いた。
***
作戦は単純だった。まず真正面から敵の本拠地に切り込んで、一雷が幻術を仕掛ける。幻術で混乱している敵の親玉を、わたしが
「しっかしよぉ、てめえって本当にアホなんだな」
「なにが」
わたしは家を出ると自転車に乗り、首ノ塚に向かって走り出していた。白色のレインコートは雨粒を跳ね除けてくれるが、顔は濡れるし、隙間から入り込んでくる雨水を完全に防ぐことはできない。
やっぱり雨は嫌だなぁ。これのせいで芦名さんもダウンしてるんだし。
「分かってねえのか?」
「分かってると思うよ」
わたしが返事をすると、彼は言葉を失ったように黙ってしまった。
一雷から見れば、確かにわたしはアホに映るだろう。敵の本拠地に突入することになったのも、わたしがピアスを持つことになったのも、一雷の作戦である──それが犬退治のための作戦であるという保証はどこにもない。犬の復活はただの
わたしは彼を家に呼んでいないし、芦名さんも彼を呼び出してはいない。つまり彼がここにいる理由は、善意、悪意、偶然のいずれだが、こういう都合の良い展開は、悪意である確率が高いと思っている。
もし悪意ならば、わたしは見事に術中に嵌まったことになる。その様子はアホとしか表現しようがない。
「じゃあ、問題ねえな」
「うん、問題ない」
わたしは自転車の速度を上げた。胸の中のモヤモヤをすっきりさせるには、さっさと目的地に着くに限る。そこでなにが起ころうと、知ったことではない。
***
一雷が裏切るという心配は、芦名さんもしていた。だから家を出る前、彼女とこんな会話をしていた。
「最上さん。もし狸が裏切ったらどうするつもりですか?」
「うん? そうだね。そうなったらまたコロッケを献上させるよ。今度は一年分かな」
***
首ノ塚の入り口。学校に向かう坂道は暗く、それを挟むように広がる森はそのもの闇である。巨大な怪物が口を広げて待っているような、そんなふうにも見える。
そこに人が立っていた。傘をさしているが、横風のせいであまり意味を成していない。制服はずぶ濡れで、まるで服を着たまま水泳でもしたかのようである。
童顔の小柄な男だった。その男はわたしを見つけると、進路を塞ぐように自転車の前に立った。
「最上クウコ」
そしてわたしの名を呼ぶ。でもわたしは彼を無視して坂道に向かおうとする。
「最上クウコ。無視するなだもん」
「知らない人に声を掛けられたら無視するよ。あなたは誰?」
信号機の赤色が水溜りに映り、それを自動車が踏み散らす。雨などものともしない鉄の塊は、今日も変わらず道路を走り抜ける。
そのライトが彼の表情を照らす。どうやら驚いているらしい。
「誰って、僕だよ。キギネミスズ」
「わたしはその人を知っているけど、あなたは違うよね──ごめん急いでいるから、もう行っていいかな」
「冗談を言っている場合じゃないもん。危険なやつが復活したって師匠から聞いて、調べてたんだもん。僕は居場所を突き止めたから、案内するもん」
わたしは返事もせず、再び自転車を漕ぎ始めた。男を背後に回し、その視線を置き去りして。
***
「クウコ」
「なあに。アホ一雷」
「なんで無視したんだ?」
「知らない人に道案内なんて頼まないよ」
彼は絶句。その間もわたしは坂道を上り続けた。
そして以前に犬と遭遇した地点を通り過ぎる。そこでようやく一雷がまた話し始める。
「さっきの
「そうだった?」
「それ以外なら、何者なんだよ……。ていうかよ、てめえは今、どこを目指している? 敵の本拠地は分かってんのか? 犬が封印されていた地点は通り過ぎたぜ」
「そこが本拠地だったの?」
「最有力候補だろ。で、てめえはどこを目指して……」
わたしはハンドルを右に切った。急な進路変更に耐えられず、タイヤが滑り、車体が傾く。
足を地面に着けて、転倒を防いだ。そのわたしのすぐ近くを、なにかが猛烈な──自転車を撥ね飛ばしていただろう勢いで、通り過ぎていった。それは十メートル先で止まり、反転してこちらを向く。
さっきの男だった。もう傘はさしてもいない。雨にされるがままのその影は、ジトッジトッと一歩ずつこちらに近寄ってくる。
五メートルくらいの距離になった。
「とりあえず学校目指していたけど。一雷の意見は?」
「……こうなっちまったら黙ってもいられねえな。
「なんの答え?」
「こいつが敵の親玉だよ」
わたしは「そうなの?」と、バッグの中の一雷ではなく、目の前の男に聞いた。
「師匠、ありがとうだもん。ちゃんと最上クウコを連れてきてくれた」
彼がにやりと笑う。それは知的で、狡猾で、
やはり別人。容姿は彼そのものだけど。
「一雷。敵の親玉って、どういう意味?」
「どうもこうもねえ、こいつが復活した犬の怪異だよ。美鈴の体を乗っ取っているみてえだ」
「じゃあ一応は美鈴ちゃんなんだ。不思議だね、まったく別の生き物に見える」
「ああ、美鈴でもあるし、別の怪異でもある。だから拠点を探す必要もねえ。こいつを倒せば勝ちだよ」
わたしは首を傾げる。彼の言っていることがピンとこない。あまりこの男を怖いと感じなかった。
「師匠、感謝するもん。でもお礼はできないもん」
「バレてるのにその話し方、面倒じゃない?」
「……じゃあ普通に話しますか。お久しぶりですね、お嬢さん。風邪はひきませんでしたか?」
その口調は、あの赤目の犬と遭遇したときに会った男と同じだった。丁寧というより事務的で、まったく心が込もっていない。
「夏川君。約束通り、彼女を連れてきてくれましたね。感謝します」
「いや、約束通りにしたくはなかったんだがよ。だっててめえ、俺ごと殺す気だろ?」
「ええ。生かしておくメリットはないですから」
その言葉が合図だったかのように、森からたくさんの赤目が飛び出してきた。大中小の犬たち。元は飼い犬だったものもいるのか、首輪を付けた犬もいる。
「一雷。今の話、あとで詳しく聞かせてね」
「一応言っておくけど、俺は裏切ってねえぜ」
「大丈夫。最初から信じていない」
リュックから一雷が飛び出してくる。それは空中でリボルバーの拳銃に代わり、わたしの手元に落ちてきた。わたしはそれをキャッチすると、早速、狐火を銃弾に変えて装填する──つもりで、銃を燃やした。
「
「あれ?」
「『あれ』じゃねえ! また燃やしてんじゃねえ! 学習しねえやつだな、このアホ子!」
「そもそもどうやるんだっけ?」
「そこからかよ! ちょっと格好良くて頭良さそうな雰囲気出してたから安心してたのに、結局この展開かよ、このアホ子! アホアホ子!」
「うっさい! アホアホ言うな! アホ一雷!」
犬たちが迫ってくる。コンビネーション、練習しておくべきだったなぁ。
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