2章-第4話
朝から嫌な予感がしていた。
六月三日、金曜日。今日も雨降りで、仕方なくバスで通学していたが、交通遅延に巻き込まれて最寄駅への到着が遅れた。駅からまたバスを乗り継ぐが、学校近くのバス停に着いたときにはすでに遅刻が確定している状況だった。
傘をさしながら坂道を歩く。森沿い道は、空が暗いと昼間でも薄気味悪い。ただし朝の通学路は人が多いせいか、さほど怖いと感じない。
いつもなら──そうである。しかし遅刻中のわたしは、誰もいない通学路を一人きりで歩いていた。
「バス停から学校までってこんなに遠かったっけ……。肌寒いし最悪だよ」
朝のホームルームには間に合わないものの、一限の授業には間に合いそうな時間である。自転車ならあっという間に通り過ぎる森の景色を横目に、せっせとつま先を前へと運ぶ。
先月、『赤い目をした生き物』を見つけてしまった地点に差し掛かる。見ない方が良いと分かっていても、ついそちらに視線を遣ってしまい──
「え……」
森の中に赤い目を見つけてしまった。どうやら一匹だけのようだが、間違いなくわたしを見ている。暗がりの中、姿はまったく分からず、ただ目の位置から中型の動物なのではと想像がついた。
「うえ、気持ち悪いな。早く行こ……」
そいつから目を逸らし、駆け足でその場を去ろうとする。しかし次の瞬間、『ガサガサガサ』という音が聞こえ、気配が近づいてくるのを感じた。
落ち着け、わたし。やつは森の中にいる。森と道路の間には金網フェンスがある。動物はこちら側に簡単には出てこれないはず……だが。
「フェンスに穴とか空いてなければだけどね。そして実際には穴が空いている」
老朽化した物理セキュリティに期待しても無駄なことは知っている。逃げ切ることを諦めたわたしは、足を止めて振り返った。それから傘を下ろし盾のように構え、その生き物と向き合う。
赤い目の犬。最初、森の中にそれを見つけたときは、さほど大きくない生き物という印象を持っていたが、目の前にするとかなりの大きさだった。大型犬の部類。茶色と白が混じったような毛並み。目には黒目も白目もなく、全体が血のように赤く、薄く光っている。
目さえ普通なら、野良犬としか思わなかっただろう。可愛いとさえ思ったかもしれない。しかしその真っ赤な瞳には狂気しか感じられず、とても和解できそうもない。
「どうしよう……警察呼ぶしかないかな」
スマートフォンはバッグの中にある。傘を構えたままそれを取り出すのは手間取りそう。迷っているうちに犬はじりじりと近寄ってくる。飛びかかるタイミングを図っているように見えた。
こうなったら切り札を使うしかない。もし噛みつかれそうになったら狐火を出して追い払うのだ。それを繰り返せば諦めてくれるかもしれない。
「さあ来るなら来い……いや、やっぱり来ないで。無理だ、勝てる気しないよ」
「どうかしましたか?」
「────っ?」
背後から男性の声がした。いつの間にそこにいたの!?
わたしは振り返ることもできず、相変わらずの体勢のままパニックに陥った。犬から目を逸らすことはできないが、声の主である男性の顔を見ることができないのも不安である。
「ずぶ濡れになっておりますが」
「犬、この犬のせいで」
「犬?」
わたしはカックンカックンと何度も頷く。この際、目の前の犬を追い払ってくれるのならば、背後の男が敵でも味方でも怪異でも変態でも構わなかった(できれば味方が良いけど)。とりあえず問答無用で
「犬なんてどこにもおりませんが」
「いるでしょ、わたしの目の前に」
「?」
反応が悪い。まさかこの圧倒的な
「犬! わんこ! でんじゃーどっぐ!」
「いや、なにもおりませんよ。良く見てください」
「だからいるって……あれ?」
わたしはまだ視線を逸らさず、犬の方をずっと見ていた。その犬の姿が徐々に歪む。輪郭が曖昧になり、その付近の空間を巻き込んでぐるりと回る。それから歪みが戻ると──犬の姿がない。
「ほら、いないでしょう」
「いないけど……待って、今のは一体」
「ああ、風も冷たくなってきましたね。早く学校に行かないと風邪をひきますよ」
「うん、そうだけど。その前にさ……って、あれ?」
わたしは振り返った。確かに男性の声が聞こえていた──そのはずなのだけど、そこには誰もいなかった。
「…………」
雨の音だけが響く。わたしは傘を落としたまま、しばらく呆然と、その誰もいない場所を眺めていた。
***
学校に到着する。防水性の高いバッグを使っているので荷物は無事だったが、制服は水浸しになっていた。わたしは授業に出る前にジャージに着替えなければならず、一限の授業もすっかり遅刻してしまった。
休み時間になるなり、芦名さんが心配そうに聞いてくる。
「なにかありましたか?」
「いろいろありすぎたよ……。たぶん怪異絡み」
「それは……あとで話を聞かせてください」
芦名さんは、なお心配そうな表情で言った。その一方で、能天気な声。
「ふーん、怪異ねえ。なんの臭いも付いてねえけどな。よほどの雑魚か、よほど気配を消すのが上手いやつか」
「安定のアホ一雷……死ね!」
わたしは振り返ると、
「
「頼んでないし! あとせめて許可取ってからやれ!」
「女子に体の匂い嗅がせろなんて言えるかよ! 俺は変態か!」
「言っても言わなくても変態だよ! 無断でやるのは変質者だよ!」
わたしが再び辞書を構えると、一雷は「綺麗な花には棘がある。綺麗じゃない花にも棘がある」と謎の呟きをしながら去っていった。
「昼休み、また話をしましょう」
芦名さんが冷静に言う。わたしは頷いた。
***
いつも以上に授業に集中できず、外の景色を眺めてばかりで午前中が終わってしまった。ノートもあまり書けてなく、後々苦労することになるのは確実である。
しかし未来の苦労より、
というわけで昼休み、わたしは机に弁当箱を出す。しばらくすると芦名さんがパンを持って購買部から戻ってきて、ついでに一雷も帰ってくる。彼を追い返そうとするとそれだけで昼休みが終わってしまうので、そのまま近くに座らせておく。
昼食を食べ終わると、芦名さんが
「あ、クウコ。そういえばお前、体育祭なにやるんだ? 食い意地張ってるしパン食い競争か?」
「パン食い競争なんて種目にないし! じゃなくて、今、芦名さんが大事な話を始めようとしたところなんだから変な話題振らないでよ!」
この一雷という男。大人しく話に参加してくれれば役に立つ可能性もあるのに、本当に邪魔なことしかしてくれない。
「さて、体育祭はさておき。朝の話をしましょうか」
「体育祭かったるいよなぁ。一人で目立つのも嫌だし、一緒になにかするってのも柄じゃねえし」
「またぶっ叩かれたいの?」
わたしが英和辞典を取り出して、ようやく一雷は黙った。そして芦名さんが「さて」と言うが、三度目となるともうグダグダである。シリアスどこに行った。
「朝の出来事を、詳しくお伝えいただけますか。最上さん」
「うん。じゃあ話すね」
わたしは坂道で出会った犬、そして消えてしまった男について、二人に話した。
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