椿・弐
第23話 Temptation ~血の誘惑~
鼻歌を歌いながら出来るような、ピクニックミッションのはずだった。
オーク、それは人の身体に豚のような頭を持ち、全身が
人の言葉を理解し集団で行動する社会性のある生物だが、文明のレベルが低い暴力の信奉者だ。
彼らの主な武器は原始的な石斧やこん棒であり、非公式ながら勇者の称号を持つリカルドにとって十体いようが二十体いようが楽に倒せる相手であった。
しかし今、彼は死の危機に瀕していた。
オークは通常、成人男性と同じか少し高いくらいの身長なのだが、目の前の個体は三メートルほどもあった。右手には巨大な斧が握られている。オークの突然変異体である。
リカルドの息は荒い。足が小刻みに震え、剣を持つ手に力が入らない。気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。斧を防ぐ度にそのまま吹き飛ばされ、木や地面に叩きつけられダメージが蓄積していったのだ。
逃げろ、勝てない。戦士の本能がそう叫ぶ。
しかし逃走ルートは配下のオークたちに塞がれていた。奴らを斬り伏せることくらいは楽に出来るのだが、オークリーダーに一瞬でも背を向けることは命取りである。
どうする、どうすればいい。何度考えても答えは同じ所にたどり着く。予備として腰に差していた妖刀を使うしかない。
正直な所、これを抜いたからといってどうなるかはわからない。実戦で使ったことがないのだ。
このまま何もしないでいれば殺される、それだけは確かだ。ならば賭けるしかあるまい、配当不明のデスゲームに。
リカルドは持っていた剣を放り投げた。手が震えて上手く鞘に納められる自信がなかったのだ。
「ぶひひひぃん。どうした、もう降参かあ?」
オークリーダーが生暖かい息を吐きながらリカルドを
リカルドは不快な笑いを無視して刀を抜き、正眼に構えた。
辺りは甘い香りに包まれた。背後に血塗れの女がいて、耳元で何事かを囁いている。応じれば、殺される。リカルドは死の誘惑を振り切ってオークリーダーを睨み付けた。
「ぶひぃ、綺麗な剣だな。お前を殺して俺がもらってやろう!」
オークリーダーはニタニタと油っぽい笑みを浮かべて巨大斧を振りかぶった。
何も起こらないのか。そう思った瞬間、オークリーダーは斧の刃を自分の首に叩きつけた。
「おん、おん、ぶひひひぃんひぃん!」
それは苦悶の声ではなかった。頸動脈から血を噴水のように撒き散らしながら、性的快楽でも得ているような
ろくに研いでもいない斧だ、刃は首の三分の一ほどめり込んで止まっていた。より大きな快楽を求めようとオークリーダーは斧をぐりぐりと押し付けるように動かす。
切断こそ出来なかったが、失血死するには十分であった。
血を失ったオークリーダーの身体がぐらりと揺れて、土埃を舞い上げ前のめりに倒れた。
「ひぃえええ!」
取り囲んでいたオークたちは恐慌状態に陥った。大半は逃げ出した。その場にへたり込む者がいた。立ったまま失禁する者がいた。
恐るべき妖刀使いに立ち向かおうとする者は誰もいない。
「何だこれ、何なんだよこれ……ッ!?」
わからない、意味が分からない。
リカルドはガチガチと奥歯を鳴らしながら、震える手で刀を鞘に納めた。甘く冷たい空気は霧散したが、背中に走る悪寒はいつまでも消えてくれなかった。
魔物討伐任務を終えたリカルドをマクシミリアン・ツァンダー伯爵は側近たちと共に上機嫌で迎えた。
名誉の場である。しかし勇者の顔に凱旋の喜びは無かった。
「お人払いを願います」
リカルドが暗く沈んだ表情を浮かべて言うと、側近たちはざわざわと騒ぎ出した。
あまりにも無礼であろう、誰かがそう言った。誰が言ったかなど気にしなかった。口にしたのは一人でも、皆が同じ気持ちであっただろう。
「あの刀に関する事でございますれば……」
リカルドがそう言うと伯爵はしばし考え込んでから、
「よかろう。ゲルハルトとジョセルを残し、皆は下がるがよい 」
と、言った。
「しかし、閣下……ッ」
「どうした、私はもう指示を出したぞ」
食い下がろうとする側近を伯爵はひと睨みして黙らせた。
これも奇妙な話であった。伯爵はいつも気弱で、側近たちにも一歩引いて気を使っているようなお人ではなかったか。
側近たちの言を受け入れてこの場に残すか、申し訳ないがとお願いして立ち去ってもらうかのどちらかだと思っていた。今日に限って何故か自信に満ちた態度だ。
落ち着いて周囲を見渡すともう一つ妙な点があった。伯爵は剣を従者に持たせず、脇机に置いていた。よほど気に入っているのだろう。遠目に見てもわかるほど豪華な
自分が城を出ている間に何が起こったのだろうかと疑問を抱くリカルドであった。
側近たちがぶつくさと文句を言いながら部屋を出た。中には憎悪を込めてリカルドやゲルハルトを睨む者もいた。
気弱な領主が上手く踊ってくれなくなった、伯爵がほんの少し自信を付けた、それは城内の権力闘争において死活問題でもあるのだろう。
ゲルハルトはふてぶてしい顔で彼らを見送っていたが、やはりリカルドには何の事やらさっぱりわからなかった。
「さて、報告を聞こうか」
伯爵が椅子に座り直して言った。
憧れの世界は一歩近づき、もうおとぎ話をせがむ子供のような顔をしなくなった。
「はい、実は……」
リカルドはオーク討伐の件を語った。
驚くほど巨大な変異体が現れた事、賭けのつもりで妖刀を抜いた事、いきなりオークが恍惚の表情で自害した事など。
「……報告は以上でございます」
あまりの凄まじさに謁見の間はしんと静まった。
やがてゲルハルトが、
「たわけが……ッ」
と、吐き捨てるように言った。
それはオークたちか、あるいは魔物の報告を正確にしなかった近隣住民に対する言葉かと思いきや、老職人の鋭い視線はリカルドに向けられていた。
俺なのか、何故俺なのだ。怒られる理由がさっぱりわからなかった。
「経緯はどうあれ、お主はその刀に命を救われたのだ。ならば不気味だの恐ろしいのと言う前に、まず礼を述べるべきだろうが」
まるで刀を一人の人間として扱っているような物言いであった。この老人一人がおかしいのかと思いきや、伯爵も小さく頷いていた。
助けを求めるように高位騎士ジョセルに視線を移すが、彼は無表情であり特に異議を唱えるつもりはなさそうだ。
「あの、これは刀で……、道具ですよ?」
「職人が魂を込めて作り、戦士が命を預ける物が、ただの道具か」
ふんと鼻を鳴らすゲルハルトの眼は冷ややかであった。
皆おかしい、狂っている。それとも自分がおかしいのか。リカルドはアイデンティティ崩壊の危機であった。
今まで黙って聞いていた伯爵が、何かを思い付いたように言った。
「銘が入っていないのが悪いのではないか。あの刀、あの妖刀と呼んでいたのでは愛着も湧くまい」
「なるほど、良きお考えかと」
「ゲルハルト、刀匠への紹介状を書いてやれ。それと金貨十枚を合わせて今回の褒美としよう」
ゲルハルトとジョセルがお辞儀をして、リカルドもそれに従った。自分の意思とは関係なく話が進んでしまったが、口を挟めるような雰囲気でもなくなっていた。
「ところで、集落の者共はオークが変異体だと気付かなかったのでしょうか」
ジョセルが疑問を口にすると、ゲルハルトは首を横に振った。
「変異体という言葉を知らずとも、巨大であることくらいはわかっていたはずだ。そうでなくては慌てて助けを求めたりはすまい」
「ならば何故、それを言わなかったのでしょうか。規格外の化け物だと知っていればこちらもそれに応じた援軍を出し、勇者どのを危険に晒すこともなかったでしょう」
それはリカルドも気になっていた。今回はなんとか無事に切り抜けたものの、下手をすれば殺されていたのだ。ごめんねついうっかり、その一言で終わらせられてはたまったものではない。
「依頼者が正確な報告をしないというのはよくある事だ。強大な魔物であると言えば討伐隊を寄越してくれないかもと思ったのかもしれぬな」
と、ゲルハルトは苦い物でも吐き出すように言った。実体験だろうか。何かと謎の多い
「嘘でも何でも、とりあえず来てもらえば後は巻き込めると?」
「そういう事だ。最初の一人は死ぬだろうがな」
その最初の生け贄にされかけて、リカルドの心中は穏やかでなかった。
「リカルドよ、弱き民はお主にとって守るべき対象であろうが、奴らが常に善良であるなどとは思うなよ」
「……肝に銘じます」
ゲルハルトの言葉に、リカルドが重々しく頷いた。
伯爵が辺りを見回してからまとめに入った。
「この行き違いは民と私との間で信頼関係が築けていなかった証だろう、今回は不問とする。ジョセルよ、集落へ向かいその旨を伝えよ。それと……」
伯爵の眼が冷たく光った。それは正に冷徹な領主の顔であった。
「次は許さぬ、とな」
「はっ、しかと伝えます!」
こうして謁見の儀は終わった。部屋を出ようとするリカルドの背にゲルハルトの声がかかる。
「刀鍛冶の家に行って、その場に男一人しかいなかったら日を改めて出直せ。絶対にだぞ!」
「その男が、刀鍛冶ではないのですか……?」
「女商人が一緒に居る時にしろ。さもなくば……」
ゲルハルトの表情に先程までのような冷たさが無い。本気で心配しているようだ。
「刀の名前を、勇者ブレードとかにされかねないぞ」
今日は訳のわからないことだらけだ。
ゲルハルトの忠告も意味がわからない。
ただ、最後の忠告にだけは素直に従っておこうと決めるリカルドであった。
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