第55話 夏川ゆら誕生のきっかけ

 紫音が泣き止んでから、二人は、ベッド隣同士に腰かけて、肩を寄せ合っていた。

 小学生の頃は、妹がよくじゃれあいのスキンシップでしてきたこともあったけれど、お互い高校生になった今、こうして兄妹で寄り添っていることが何ともむず痒くて気恥ずかしい。

 ちらりと紫音の様子を窺うと、妹はスリスリと顔を俺の肩へと埋めて、満面の笑みを浮かべている。

 俺の視線に気づいたのか、紫音がすっとこちらを見上げてきた。

 目が合って見つめ合うと、紫音はにっと無邪気な笑みを浮かべて来る。

 

 そんな妹が可愛らしくて、俺の胸はきゅんと締め付けられてしまう。「

 

 落ち着け、相手は妹だぞ!

 

 心中ざわついていると、紫音が至福な吐息を吐きながらしゃべり始めた。


「私ね、お兄ちゃんの耳かきしてもらうの、昔からずっと好きだったんだ」


 いきなり、昔のことを懐かしむようにカミングアウトする紫音。


「そ、そうなのか?」

「うん……ほら、小学生の頃とか、よく一緒にお風呂入った後、リビングで耳かきあいっこしたでしょ? 覚えてないの?」

「あぁ……確かそんなこともあったな」


 それは、俺と紫音がまだ小学生の時の話。

 男の子と女の子の違いとか、全く理解していなかったような時代。

 そういえば、週末はいつも、紫音と一緒にお風呂に入った後、リビングでお互いの耳掃除をし合いっこするのが日課になってたっけ?



「でも……」



 記憶の奥底にある懐かしい思い出が、俺の頭の中に蘇ってくる中、紫音が悲しそうな声を上げて、話しを続けた。


「お兄ちゃんが中学に上がってから、お互いお風呂も別々になって、お兄ちゃんと昔見たいにスキンシップを取るようなことなくなったでしょ?」

「そうだな」


 中学に上がり、思春期に入ったことで、俺も妹と一緒にじゃれ合うことが恥ずかしくなってきて、自然と距離を置くようになってしまったのだ。


「あの時はずっと、どうして今まであんなに優しくしてくれてたのに、いきなり距離を置き始めたんだろうって分からなくて、凄いモヤモヤしてたの。でも私が中学に上がって、兄妹でそうやってスキンシップを取るのは世間的には違うんだってことを知って、失望したの」

「うん」

「それから、私もお兄ちゃんとどう接すればいいのか分からなくなっちゃって、気づいたら、そっけない態度で取るようになってて、私の方から無視するようになってた」


 俺は肩に寄り掛かっている紫音の頭を優しく撫でながら、話の続きを促した。


「でも、私の中にはずっと葛藤があったの。昔みたいにとはいかなくても、いつかお兄ちゃんと仲直りして、あの頃のような仲のいい兄妹に戻りたいなって」

「そか……そんなこと思ってくれてたんだな」

「うん」


 初めて聞く妹の本音を、俺は静かに受け止める。


「そんなときに出会ったのがASMRだった。最初は何これって驚いたんだけど、調べてみたらリアルな耳かきを体験できるって知って。それから私も、ASMRに嵌っていっちゃって、気づいたら、やってみたいって思うようになってた」

「すごいな。よくそれから実行まで移したね」

「それは多分……ずっとお兄ちゃんに耳かきしてあげられなかった心残りがどこかにあったんだと思う」

「……」


 紫音の漏れ出てくる言葉一つ一つが恥ずかしすぎて、俺は顔から火が噴き出しそうだ。


「それで最初は、凄い安いバイノーラルマイクを購入して、自分だけでいい音が出ないかって試してたりしてたの。でも自信を付けてくうちに、他の人にも聞いて欲しいなって思うようになって、配信を始めてきたのがきっかけだった」

「そうだったのか」


 まさか、配信者夏川ゆらの誕生秘話が、お兄ちゃんに耳かきが出来なくなってしまったからと聞いて、俺はつい心の中で嬉しさを覚えてしまう。

 だって、俺がもし紫音とこうした関係になっていなければ、ASMR配信者、夏川ゆらはこの世に生まれていなかったのだから。


「そしたらさ、お兄ちゃんが私のASMRボイス聞きながら授業中に眠ってて怒られたって言うんだもん。私それ聞いた時、心がきゅんって締め付けられて、凄い満たされた気持ちになったの。あぁ、またお兄ちゃんに耳かきして心地よくさせてあげらたんだって」

「……まあ、そうだな」

「形は違えど、私の耳かきで癒されてくれてることが嬉しくてたまらなくて、この気持ちを伝えたいと思って、こっそり下駄箱に手紙を忍ばせておいたの」

「それで、あの手紙を書いたのか」


 ようやく、手紙事件の真相が明らかになった。

 つまり、俺が夏川ゆらのASMR配信で居眠りしていたことを聞いた紫音は、この嬉しい気持ちを直接伝えることが出来ないため、苦肉の策として手紙という形で気持ちを伝えたというわけだ。


「だからさお兄ちゃん」

「ん、何だ?」

「今度は音声越しじゃなくて、お兄ちゃんの耳掃除、私が直接してあげたいんだけど……」

「えっ……」

「ダメ……かな?」


 上目遣いに尋ねられ、俺は返答に困ってしまう。

 紫音がこうして、今までの経緯を打ち明けてくれて、氷河期の兄妹仲が嘘のように融解して、昔のような仲に戻れたのはとても喜ばしいこと。


 でも、紫音は配信者の夏川ゆらである。

 つまり、妹に耳かきをしてもらうということは、夏川ゆらに直接耳かきしてもらうも同然なわけで……。

 

 あぁ何だこれ⁉

 どうして妹相手にこんなドキドキさせられなきゃならねぇんだ⁉


「お願い、お兄ちゃん。今までのお詫びも兼ねて……ね?」


 そう言われてしまうとこちらも言葉に詰まってしまう。


 悩みに悩んだ末、礼音が出した答えは――


「わ、分かったよ。久しぶりに紫音に耳かきしてもらうことにするよ」


 耳かきを受け入れるという選択だった。

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